明治43年、4月15日 広島沖にて。

生身の私を知っている人で、このブログの事を知っている人は非常に少ないのです。
その数少ない一人に、親しくさせていただいている女性がいらっしゃるんですが、先日お会いした時に

『ブログ見ましたよ。なんか、想像してたよりちゃんとしたブログで驚きました』
と。
『あの、最初のページに出てた記事、本当にびっくりしました。あんなこと書いてるなんて・・・』

私は、『どの記事ですか?』と聞くと、硫黄島の戦いが集結したときの最後の決別電報と、「ルーズベルトに与うる書」の記事だったそうで。
http://blogs.yahoo.co.jp/moai33jp/54264995.html

『ここに書かれてる事、始めて知りましたけど、それを書いてたのがもあいさんですか・・・驚きました』、と。

調子に乗ったわけではないのですが、いつかこの事も書こうと思っていました。

明治43年4月15日 午前10時頃、約百年前の事。広島の沖合いで、事故が起こりました。潜水艦の沈没です。
当時、潜水艦は最新鋭兵器。事故を起こしたのは、始めての国産潜水艦だったそうです。
潜水艦について何のノウハウも持ち合わせていない当時の日本が作った潜水艦。性能は良いとは言えず、その第六潜水艇どん亀という呼び名で呼ばれていたとか。

今もそうでしょうが、潜水艦ってのは、浮上している間はエンジンを使って動く。潜水している間は、浮上している間に作った電気をバッテリーに蓄えて、モーターで動く。当時の蓄電池は性能が悪いから、それほど長距離を進むことなど出来ない、と。

その日、明治43年4月15日の訓練は、吸気口を海面に出して、エンジンの力で潜行するという訓練であったとか。

警戒に当たっていた潜水艦の母艦が一瞬見失った瞬間に、第六潜水艇は姿を消した。事故により沈没してしまったのです。
六号潜水艇は、16日に引き上げられます。日本では始めての潜水艦の事故でしたが、海外で起きていた潜水艦の事故の事は知られていました。乗組員は何とか助かろうと、ハッチに殺到し、時にはそこで争った後もあった、と。
先年、ロシアの潜水艦が沈没した時にも同様の事が言われてました。

中はまさに阿鼻叫喚の様相だろうと。ハッチを空けようとしても、水圧で開ける事など出来ない。でも、人は生きようとして、そこに殺到するのでしょう。
そのため、引き上げられた潜水艦からは、遺族をはじめ、部隊の関係者も遠ざけられたとか。

実況検分に入った直属の上官吉川中佐は潜水艇の中に入った後・・・


『よろしい!!』

そう絶叫して号泣されたとか。海底に沈没し、空気が無くなってその命が終わろうとしている時、この第六潜航艇の14人の乗組員は、その12名が自分の持ち場を守ったまま、亡くなっていた。残りの二名は、潜水艇の中でガソリンが漏れ出しているところを修理している所で息絶えていた・・・。

第六潜航艇の佐久間艇長の胸には、手帳が残されていた。そこには、39ページに渡る遺書がしたためられていた。事故を起こした事を詫び、事故の経緯を記し、残された部下の家族の事を思う言葉。
その遺書に書かれた事故の経緯から、電気も無い状態で、約10mの海底でのこと。薄暗い中書かれた文字は、手帳に3行くらいずつ記されていたとか。


佐久間艇長遺書

小官の不注意により
陛下の艇を沈め
部下を殺す、
誠に申し訳なし、

されど艇員一同、
死に至るまで
皆よくその職を守り
沈着に事をしょせり


我れ等は国家のため
職に倒れ死といえども
ただただ遺憾とする所は
天下の士は
これの誤りもって
将来潜水艇の発展に
打撃をあたうるに至らざるやを
憂うるにあり、


願わくば諸君益々勉励もって
この誤解なく
将来潜水艇の発展研究に
全力を尽くされん事を


さすれば
我ら等一つも
遺憾とするところなし、


沈没の原因

ガソリン潜航の際
過度探入せしため
スルイスバルブを
締めんとせしも
途中チエン切れ
よって手にて之を閉めたるも後れ

後部に満水せり
約二十五度の傾斜にて沈降せり


沈据後の状況

一、傾斜約仰角十三度位
一、配電盤つかりたるため電灯消え
  電線燃え悪ガスを発生
  呼吸に困難を感ぜり、


十四日午前十時頃沈没す、 

(十四日と遺書には書かれてますが、事故は十五日。恐らく意識混濁していたのでしょう)
この悪ガスの下に
手動ポンプにて排水につとむ、


一、沈下と共にメインタンクを
排水せり
灯り消えゲージ見えざるども
メインタンクは
排水し終われるものと認む

電流は全く使用するにあたわず、
電液は溢れるも少々、
海水は入らず
クロリンガス発生せず、
残気は五百ポンド位なり、
ただただ頼む所は
手動ポンプあるのみ、


ツリムは安全のため
ヨビ浮量六百
モーターの時は二百位とせり、


右十一時四十五分
司令塔の灯りにて記す


溢入の水に浸され
乗員大部衣湿ふ寒冷を感ず、
余は常に潜水艇員は
沈着細心の注意を要すると共に
大胆に行動せざれば
その発展を望むべからず、
細心の余り
萎縮せざらん事を戒めたり、
世の人はこの失敗を以て
あるいは嘲笑するものあらん、
されど我は前言の誤りなきを確信す、


一、司令塔の深度は五十二を示し、
  排水に努めども
十二時までは底止して動かず、
この辺深度は十尋位なれば
正しきものならん、


一、潜水艇員士卒は
抜群中の抜群者より採用するを要す、
かかるときに困る故、
幸い本艇員は皆良くその職を
尽くせり、満足に思う、



我は常に家を出ずれば死を期す、
されば遺言状は既に
「カラサキ」引き出しの中にあり


(これ但し私事に関する事を
言う必要なし、
田口浅見兄よ
之を愚父に致されよ)

 
公遺言

謹んで陛下に申す、
我が部下の遺族をして
窮するもの無からしめ給わらん事を、
我が念頭に懸かるものこれあるのみ、



右の諸君によろしく(順序不順)
一、斎藤大臣 一、島村中将
一、藤井中佐 一、名和少尉
一、山下少将 一、成田少将

 
(気圧高まり
鼓膜を破らるる如き
感あり)

 
一、小栗大佐 
一、井出大佐
一、松村中佐(純一)
一、松村大佐(竜)
一、松村少佐(菊)
(小生の兄なり)
一、船越大佐、
一、成田鋼太郎先生
一、生田小金次先生

 
十二時三十分
呼吸非常に苦しい
ガソリンをブローアウト
せししつもりなれども、


ガソソリンにようた

一、中野大佐、

十二時四十分なり、



これが絶筆です。

潜行時に角度が急であったために、通風孔より水が浸入。通風孔をふさごうとしたが、チェーンが切れ、手動で閉めようとした。その為にバルブを閉めるのが送れ、艇内に海水が浸入。配電盤をショートさせ、電気が使えなくなった。手動ポンプで排水を試みたが、浮上することは無かった。

刻々と空気が無くなり、死が近づく中、佐久間艇長は、冷静に事故の原因を記し、部下の家族の事を思う・・・。
悲しい事故のなか、なんと立派な態度で有ったことか。

当時、事故に対する遺族への補償金などの支払規定は無かった。明治天皇はこの知らせを聞き、事故に遭われたご遺族に、補償金の支払いを裁可されたとか。

今から100年前、まだ、武士道が受け継がれていたのでしょうか。

佐久間艇長、享年31歳。

彼よりずっと歳をとってしまったけれど・・・危機に当たって、彼のように沈着冷静に行動することが出来るだろうか。
なんとなく、先人に恥ずかしい思いがいたします。

佐久間艇長に敬意を表して、数日、この記事をトップにあげておきます。




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