おじいちゃんの話から・・・『インパール作戦』

ちょっと前に、牟田口中将の事が話題になりました。
インパール作戦と言う無謀な作戦を推進し、7万人もの日本兵を死に追いやった、ひどい指導者であると説明されています。
しかし、ここで紹介しているおじいちゃんの話では、盧溝橋事件が起きた時、所属していた部隊の最高責任者であった牟田口中将の姿が描かれています。
ここでは、インパール作戦についてのおじいちゃんの記事を紹介します。(原文のままです)


インパール作戦について
インパール作戦は、
これは私と牟田口部隊長の同じ部隊で同じごはんを食べた部隊長でありますから、
牟田口部隊長がインパール作戦に選ばれたと言うことは、
私は戦場で戦い、病院生活がありましたので、詳しくは知らないですが、
牟田口部隊長のインパール作戦で敗れたと言うことは、後に聞きました。

盧溝橋の事件は昭和12年です。
インパール作戦はそのずっと後になりますので、
はっきりしたことはいえませんが、おおむね聞いた話しを申し上げます。

命令をうけて、インパール作戦に向かうとき、
牟田口部隊長ははっきりと自分の意思を発表しています。
しかし、簡単に制覇できるとは考えていないはずです。
とにかく頑張るぞ、という精神を発表しておるはずですから、
命令をうけて、腰抜けのような発表はしないはずです。
とにかくやるぞ、という発表がインパール作戦に負けたときに
牟田口部隊長がインパールの作戦を強引にやったことになっていますが、
中国や他の弱い人種のあつまりと戦うのではなく、
おそらく米英の精鋭部隊と戦うのですから、あらゆる装備はしたでありましょう。
狙われた牟田口部隊長の軍は、確かに勇猛果敢に戦ったでありましょうが、
山や谷の攻撃にかなり苦戦をし、食料弾薬等を輸送する部隊もついていたでしょうが、
荷を運ぶ部隊(しゅちょう兵部隊と呼んだそうです。)
その戦いにおそらくついていけなかっただろうと私は思いますし、聞いた話でもあります。

いくら強い部隊であろうが、弾薬、食料、がついてこなければ、これは孤立です。
ましてや米英には新兵器があり、航空機も多いでしょう。
日本部隊は航空機など人間の流す涙くらいしか生産ができておりませんでした。
私は、部隊長が、生存している話しを聞いて、
ごくろうさん、と涙を流しました。
しかし、軍や民間や世界の国では無謀な作戦をとったと評判が高い
不運な部隊長だと今も思っております。

この作戦で牟田口部隊長が7万前後の兵隊を死なせたということ、
それは、実に、残念きわまることでありましたが、
いまだに部隊長が、いろいろな作戦上の話をすると、
負け犬が東京裁判を逃げようとして自分を援護にしゃべっていると
批判しておるが、事実を話そうとしているのも社会は
許さなかった。


まさに、『勝てば官軍、負ければ賊軍』です。もちろん、『敗軍の将、兵を語らず』とありますから、作戦に失敗した部隊長の弁明は、『言い訳』と取られ、非難されたであろう事は想像できます。もちろん、『言い訳』の部分もあったのかも知れません。
恐らく、戦争開始の時点ですでに、物流の方法で日本は負けていたのです。
それは、戦っている人たちは知っていたのでしょう。その事は次ぎの記事からも読み取れます


インパール作戦について(おじいちゃんから聞いた話)
インパール作戦当時、日本は世界から経済封鎖にあっており、
食料・ゴム・鉄鋼などすべての産業に必要なものの輸入を止められていました。
軍事的にも物資が足りず、米英の軍を破り、活路を開き、物資を調達する
必要があったという背景であったとのことです。

米英の精鋭部隊とは、戦いたくないと言うのが本音かもしれませんが、
当時の日本としては戦争を続けるなら避けられない必要な作戦であったというところでしょうか。

そして、荷物を運ぶ舞台というのは、
リュックなどに食料や弾丸を運んで後ろからついていくわけですが、
道になっていないような急な山道(しかも、当然初めて歩く場所)を
重い荷物を持ってついていくのですから、ついていけなくなったと
いう推察があるのだと思います。


片や、飛行機や輸送車で必要な物資が供給されるのに、日本軍はリュックに背負って徒歩で補給・・・
これを無謀な作戦と言わずになんと言うか・・・
しかし、その一面・・・


そうしてまでも戦わざるを得なかったとも言える・・・

日本は資源の無い国です。その資源の無い日本が、経済封鎖されていた当時・・・
無謀な戦いをしなければ、属国となる道しか無かった。一か八かそんな感じでしょう。

その結果、賭けに負けたわけです。

おじいちゃんは、盧溝橋事件の三ヵ月後、戦闘で負傷し、その後前線からしりぞく事になったようです。その当時の話です

私が負傷して、聞いたこと
盧溝橋事件が始まって、牟田口部隊(いわゆる支那駐屯軍第一連隊)は
支那のど真ん中で、孤立無援、支那全体の兵から囲まれて
襲撃を受けておりました。

私達初年兵も全員囲まれている支那兵に攻撃をうけ、
それこそ靖国神社に行くことを真剣に考えておりました。
私達初年兵を教育していた上官たちも同じ事であります。
将校は少尉、中尉、大尉、そのような若い将校たちは
同じ師範学校を卒業した内地の部隊、朝鮮の部隊、満州の部隊、
それらの仲間の将校たちにも確か苦難している応援を頼む
そのような会話はされたと思います。
事実、されたでしょう。
それによって朝鮮、満州、にいる青年将校たちは
北京に兵隊を出しました。
応援に来ました。
それが、日本の軍部大本営の会議において
処罰などの問題があがったと思いますが、
私達、駐屯軍は実際には、ほっとしたのです。
軍法会議において
どんな処置をうけたか、私はいまだにわかりません。

(孤立無援で苦難する駐屯軍への朝鮮・満州にいる部隊からの応援は、
 おじいちゃんたちにはとてもありがたかった。
 しかし、それは大本営の許可無く行われた、軍の青年将校同士の友情から
 くる行動であったのではないか、と思い、どのような処罰をうけたのかわからないが、
 おじいちゃんは今でも感謝している、とのこと
 おじいちゃんは、このときの戦いで、負傷して野戦病院に収容されました
 
 通州事件が起きたのも、この時期であり、もし、応援が遅れていたり、来なかったりすれば、
 もっと支那に住む日本人たちの被害は大きかったのではないかと思う。)


一兵卒から見た中国での戦争の実情を示しています。
北京で、回りを敵に囲まれ、まさに孤立無援の状態であった。
当時一兵卒であったおじいちゃんも、その上官も死を覚悟していた・・・

そこに、大本営の許可を得ないまま、援軍が駆けつけてくれた、と。

これを、中国に対しての侵略の開始と呼ぶのでしょうか伝えられている『歴史』とは異なります。しかし・・・現場でその戦闘の真っ只中にいて、死を覚悟した一兵卒の体験は、教えられた歴史よりも説得力を持っている様に感じます


中国の言う侵略とは、一体なんだろうか?
何が正しい歴史なのか?
今なら、まだ証言を集める事が出来るかもしれない。
それは未来のために必要な物だと感じます