昭和天皇、A級戦犯合祀に不快感 ・・・その3♪

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この問題の過去記事は、『靖国メモ問題』書庫をご覧ください
めっきりマスコミが騒がなくなりましたが・・・
これはやはり・・・(笑)

引き続き、このネタで楽しめそうですね。どうやら、
朝日新聞の過去の記事で、この発言をされたのではないかと指摘されている徳川義寛侍従長の同じ趣旨の発言が記録されているようで・・・
とりあえず、今回の経緯をまとめたコピペを紹介します。



天皇陛下のお言葉なのに、一般人みたいに「参拝」なんて言うの?
(正しくは『親拝』だそうです)
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「あれから参拝していない」も何も、そもそも天皇の立場は個人の意志で参拝できるわけ無いし。
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ていうか、天皇ご自身は参拝していないが、現在も私費で勅使を靖国神社へ派遣しているし。
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ABC戦犯も全部対象にした全国戦没者追悼式に参列して、お言葉も述べている筈だが。
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つーか、どこ読んでも「私=昭和天皇」と断定できる箇所がねーじゃねーか、コノヤロー!
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むしろ、メモを残した富田氏が宮内庁長官だった時代の侍従長徳川義寛氏の発言の内容とかぶる。
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おいおい、メモを残したとされる時期と、徳川義寛氏の勇退時期もかぶるぞ。
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キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!!!!
昭和天皇と50年・徳川前侍従長の証言(朝日新聞1995年8月19日) 」に、そのまんまの発言を発見。
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というわけで、「私=昭和天皇」ではなく、「私=徳川義寛」ではないか。

http://sakuratan.ddo.jp/imgboard/img-box/img20060720181150.jpg
http://www.tv-asahi.co.jp/n-station/cmnt/shimizu/2001/0816num90.html


これは・・・



自爆決定ですか(笑)

昭和天皇と50年 徳川前侍従長の証言』で検索してみる。

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%A850%E5%B9%B4%E3%80%80%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%89%8D%E4%BE%8D%E5%BE%93%E9%95%B7%E3%81%AE%E8%A8%BC%E8%A8%80&ei=UTF-8&pstart=1&fr=ush-jp_full&b=1

その中から見つけた記事を抜粋してみます

[資料]松平永芳宮司の語るA級戦犯合祀と中曽根参拝
http://www25.big.or.jp/~yabuki/2001/yasukuni.htm
 私がここの宮司を拝命する前、そして拝命してからも、心ある人々から「祭祀法人」にしろということをいわれるんです。これは明治にできた民法に、法人にし得る団体として宗教と祭祀というのは別になっているのをとって、「祭祀法人」になればいいじゃないかと。それは結構なことだけど、民法にはそうなっておりますけれども、祭祀法人というものの例がないんですね。それをいまさらいったって、とても国会なんかで問題にはならないだろうし、いま宗教法人になっているのを祭祀法人に切替える、口では簡単に切替えるというけど、法人を切替えることはそう容易にはできない。ですから私は、これ以外にいま靖国神社としては生きる道がないんだと、割り切って宗教法人で行くよりしょうがないという考え方でおります。
<<中略>>
 合祀問題 たまたまどうしても宮司にということで、お受けせざるを得なくなったんですが、主として私をくどき落されたのが石田和外先生、もとの最高裁長官です。私はお受けするということを最終的に決心する前に、いわゆる東京裁判を否定しなければ日本の精神復興はできないと思うから、いわゆるA級戦犯者の方々も祀るべきだという意見を申し上げた。それに対して石田先生は、これは国際法その他から考えて祀ってしかるべきものだと思うと明言されました。それで私は宮司に就任してから、合祀の書類や総代会議事録等を調べました。 私の来る数年前に総代さんのほうから、最終的にA級は一体どうするんだという質問があって、いま議会が国家護持問題なんかでごたごたしてるからしばらく待ったほうがいい、それで時期は宮司に一任してくれ、という返事をして総代会も了承された。それが私の就任する6、7年前のことで、以来合祀時期は宮司預けとなっていたのです。 この経緯は議事録に遺っています。そして国家護持法案が昭和四十九年に一旦流れましたから、そこでしばらくして前宮司が合祀してくださっていれば問題なかったんです。 しかし私が来た時には、まだ合祀されていなかった。 7月に就任しまして、10月には合祀祭を迎えるのですが、それまでに名簿をつくったりいろいろな手順があるが、間に合うかと係のものに聞いたら、いまなら間に合いますという。 そこで間に合うなら合祀しようと決断しました。もし私がこれを4年保留しておいてから合祀した場合、その間、宮司はどういうつもりで握っていたんだ、といわれても回答ができない。 したがって、就任した早々であるが、前宮司から預ったこの課題は解決しなければならないということで、思い切って合祀申し上げたわけであります。 その根拠は明白です。すでに講和条約が発効した翌二十八年の議会で、援護法が一部改正され、いわゆる戦犯者も全部一般戦没者と全く同じようにお取扱いいたしますから、すぐ手続しなさい、ということを厚生省が遺族のところへ通知しているんです。いわゆる戦犯、役所では「法務死亡者」といいますが、その遺族達は終戦後、一切の糧道を絶たれていたんです。財産も凍結されていたんです。家を売ってなんとかしようとしても家の売りようがなかった。実は私の家内の父親(醍醐中将)が戦犯で銃殺になって死んでおります。家内の弟がまだ学生でしたから、私が実家の母親の面倒も見ていたのです。それで、役所からくる書類などにも目を通し、こと戦犯に関しては普通の方よりもよく知っていたわけです。そこで私は、いつまでも「戦犯」とか「法務死亡」なんていうことを言うべきでないから、さっき申上げた「幕末殉難者」とか「維新殉難者」という従来から当社の記録に使っていた言葉にあわせて、「昭和殉難者」ということにし、靖国神社の記録では戦犯とか法務死亡という言葉を一切使わないで、昭和殉難者とすべしという通達をだしたのです。
・・靖国神社は政府のお金で維持すべき神社ではなくて、国民総氏子の神社ということでなければ、どうにもならんじゃないかと考えています。

<<後略>>

 それよりも小額でいいからできるだけ多くの方々がここの神社を認識されて、ここのお陰で自分達の今日があり平和があるんだ、ということを理解していただくのが理想的なんだと考えております。それで、いまでも遺族会や戦友会の人々なんかが来られますと、お子さんでもお孫さんでもいいから、わかい人を一緒に連れてきて欲しい、みたま祭りの時でもいいし、ハトやコイにえさをやろうということでもいいから、何もあんまり難しいことをおっしゃらないで一緒に来て欲しいというんです。
                          --靖国神社宮司 松平 永芳新人物往来社

筑波常治教授と筑波藤麿靖國神社宮司

 「早稲田大学政治経済学部教養諸学研究会」發行の『教養諸學研究』第百十号(二〇〇一年三月)は、「志賀謙教授・筑波常治教授定年退職記念号」となつてゐる。科學技術史及び農業史を專門分野とする筑波常治教授は、筑波藤麿氏(もと藤麿王)の長男にして、山階芳麿氏(もと芳麿王。財團法人山階鳥類研究所理事長)の甥にあたる。筑波教授は、早稲田大學の所謂「名物教授」の一人であり、緑色が大好きであつたことでも大變に有名である。即ち、服装の色調を緑色で統一し、眼鏡の縁も緑色。大學での連絡掲示も緑色地の用紙に緑色のペンで字が書かれてゐたといふ。住所も東京都武藏野市緑町であるのであるから、實に徹底したものである。なを、いにしへの「麻雀」好きな早大生には、筑波教授の擔當する授業を全て履修することを「りゅーいーそー(緑一色)」と稱する隱語まであつたとの由である。ところで、筑波教授の父、筑波藤麿氏は、敗戰後、長らく靖國神社宮司を勤めてゐた。その在任中、昭和四十五年(一九七〇)六月三十日、靖國神社總代會で、青木一男元大東亞相の強硬な主張によつて極東軍事裁判A級戰犯を靖國神社に合祀する方針が決められた。ただし、合祀の時期は宮司に任せる、とされた。極東軍事裁判A級戰犯を「戰爭責任者として合祀しないとなると神社の責任は重いぞ」といふ青木一男による脅迫まがいの主張に對して、筑波藤麿宮司は、「ご方針に従う。時期は慎重に考慮したい」と答へ、實施を延ばし、結局、在任中には極東軍事裁判A級戰犯合祀を行はなかつた。

徳川義寛侍従長の遺言 昭和天皇との50年』(岩井克己 聞き書き・解説。朝日新聞社、一九九七年二月)、一八〇~一八二頁。 しかし、靖國神社宮司松平永芳氏に代つて間もなく、昭和五十三年(一九七八)十一月、秘密裏に極東軍事裁判A級戰犯合祀が實施された(それが新聞に報道されたのは翌年四月)。

入江相政日記』によると、松平宮司は、宮内廳に、徳仁親王浩宮]が「御成年におなりになつたのだから靖國神社に御參拜になるべきだ」と言つて來たり、徳仁親王浩宮]のオックスフォード留學に反對するといふ「馬鹿なこと」を言つて來たりしたといふ。また、松平永芳宮司は、新發現の『高松宮(宣仁親王)日記』を如何にすべきかといふ喜久子妃の相談に對しては、之を燒却すべきとの意見を述べてをり(高松宮妃喜久子『菊と葵のものがたり』中央公論社、一九九八年十一月、四八頁)、歴史に對する認識に於ても著しく缺けてゐる人物であつたことが窺はれる(『入江相政日記』昭和五十五年五月三十日、昭和五十八年三月十四日)。

 昭和天皇の侍從長を勤めた徳川義寛氏は、この極東軍事裁判A級戰犯合祀について、「筑波さんのように、慎重な扱いをしておくべきだったと思いますね」と、松平永芳宮司の措置を批判的に語つてゐる(「昭和天皇と50年・徳川前侍従長の証言」(『朝日新聞』一九九五年八月十九日)



・・・決定ですかね(爆)