リハビリ体験その7。恐らく生涯で一番痛かった一日、後編。
文字制限に引っかかったため、前編より続く。
○最後の転院先
伯父の運転するライトバンの荷台は、お世辞にも乗り心地がいいとは言えなかった。
当時の鹿児島の道は悪い。揺れるたびに、激痛が走る。あまりにも激痛にさらされ過ぎて、だんだん感覚が無くなって来るような感じ。
途中、最初に搬送された、F脳外科の横を通る。伯父がこういう
『もあい、よく見とけ。お前を殺しかけたのがこの病院だ』
と。いや、むしろ、さっきの病院の方が私を殺しかけている。こっちの病院では苦しかった事は覚えているけど、これほどの痛みは無かったと思う。
霧島病院に着いた。ここは、戦時中に海軍の病院として建てられた所。結核の患者の療養所として使われていたらしい。現在は大きなビルになっているけれど、当時は海軍病院の時代から使われているといわれていた、木造平屋建ての学校みたいな病院だった。早く言えば、ボロボロの病院。
病院に到着して、すぐ、看護婦さんたちがやってきた。
さっきの病院とは違って、みんな動きがキビキビしている。小柄な看護婦さんがリーダー格なんだろうか、連れてきた看護婦さんに色々と指示をしている。
私がストレッチャーに移される時、思わずこう口に出てしまった。
もあい:『足を、右足を持ってください!!』
その小柄な看護婦さんは、にっこり笑って、こう言った。
『大丈夫。しっかり持ってるから安心して』
なんとなく、この病院なら安心できると思った。
○最後の激痛
まず、レントゲン撮影をすることになった。この病院では、小型のレントゲン機を病室に持ち込んで、病室で撮影するらしい。今から思えば、『大丈夫なのか?(^^;)』と思うが。
レントゲンの結果を持って、S先生がやってきた。ひげを生やした小柄な先生だ。年齢は30台の前半くらいだろうか。
S先生:『もあい君、前の病院から貰ったレントゲンだと、手術しないで済むかと思ったけど・・・これは手術しないと駄目だね。』
先生が示したレントゲン写真は、骨がバラバラになっていた。
あんな目にあえば当然だけどな。
先生は、私の膝のところを見てちょっと顔を曇らせる。
『この針金(専門用語を言われたが忘れた)は前の病院で外されたのか・・・』
あ、ギプス室で何も言われずに抜かれた奴だ。
S先生:『もあい君、足もパンパンに腫れているから、すぐには手術できない。もう一回針金を通して引っ張って、骨を安定させるからね』
安心して任せようと思った。
ところが・・・
『・・・もあい君、何でこんなに牽引の後が残ってるんだ?』
さあ、知りません。あっ!
私:『私、最初にF外科に運ばれて、それから鹿児島市立病院に運ばれて・・・それで、ですかね』
『ああ・・・転院するときに外されたのか。それにしても場所が多いな・・・失敗したのかな』
前に処置された時は、どちらも意識不明ですから私には判りません。でも・・・
何度も失敗したというのはわからなくも無い
この足にワイヤーを通す作業、当然、麻酔をかけて行う。部分麻酔だけど。
太ももを挟むような道具が用意される。糸鋸みたいなU字型をした器具が膝の上に装着される。
右側からハンドドリルみたいな奴で、ワイヤーがねじ込まれていく。痛くは無いけど気持ち悪い感触・・・そう思っていると、ドリルが骨に到着した瞬間に痛みを感じる。
先生がちょっと落胆した声を上げる。
『この場所は前に使った跡だな・・・』
やり直し。
『う~ん・・・穴を開ける場所が無いぞ・・・もう少し上にするか』
先生、勘弁してください。いや、前の病院の先生な。
4度目くらいの時、いい場所に貫通した様子。
貫通した時の奇妙な感覚は、なかなか忘れがたいものがあります。
その日が何月何日だったか忘れてしまったけど、生涯で一番痛い思いが続いた一日であったことは間違いありません。
この後は、麻痺した右手のリハビリ(これはあんまり痛くない)、膝のリハビリ・・・
あと、足に埋め込まれた金属を取り除く手術の痛い話が続くくらいです。
自分の経験ってのは、誰かの役に立つかもしれないと、こんなネタも取り扱い始めました。
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○最後の転院先
伯父の運転するライトバンの荷台は、お世辞にも乗り心地がいいとは言えなかった。
当時の鹿児島の道は悪い。揺れるたびに、激痛が走る。あまりにも激痛にさらされ過ぎて、だんだん感覚が無くなって来るような感じ。
途中、最初に搬送された、F脳外科の横を通る。伯父がこういう
『もあい、よく見とけ。お前を殺しかけたのがこの病院だ』
と。いや、むしろ、さっきの病院の方が私を殺しかけている。こっちの病院では苦しかった事は覚えているけど、これほどの痛みは無かったと思う。
霧島病院に着いた。ここは、戦時中に海軍の病院として建てられた所。結核の患者の療養所として使われていたらしい。現在は大きなビルになっているけれど、当時は海軍病院の時代から使われているといわれていた、木造平屋建ての学校みたいな病院だった。早く言えば、ボロボロの病院。
病院に到着して、すぐ、看護婦さんたちがやってきた。
さっきの病院とは違って、みんな動きがキビキビしている。小柄な看護婦さんがリーダー格なんだろうか、連れてきた看護婦さんに色々と指示をしている。
私がストレッチャーに移される時、思わずこう口に出てしまった。
もあい:『足を、右足を持ってください!!』
その小柄な看護婦さんは、にっこり笑って、こう言った。
『大丈夫。しっかり持ってるから安心して』
なんとなく、この病院なら安心できると思った。
○最後の激痛
まず、レントゲン撮影をすることになった。この病院では、小型のレントゲン機を病室に持ち込んで、病室で撮影するらしい。今から思えば、『大丈夫なのか?(^^;)』と思うが。
レントゲンの結果を持って、S先生がやってきた。ひげを生やした小柄な先生だ。年齢は30台の前半くらいだろうか。
S先生:『もあい君、前の病院から貰ったレントゲンだと、手術しないで済むかと思ったけど・・・これは手術しないと駄目だね。』
先生が示したレントゲン写真は、骨がバラバラになっていた。
あんな目にあえば当然だけどな。
先生は、私の膝のところを見てちょっと顔を曇らせる。
『この針金(専門用語を言われたが忘れた)は前の病院で外されたのか・・・』
あ、ギプス室で何も言われずに抜かれた奴だ。
S先生:『もあい君、足もパンパンに腫れているから、すぐには手術できない。もう一回針金を通して引っ張って、骨を安定させるからね』
安心して任せようと思った。
ところが・・・
『・・・もあい君、何でこんなに牽引の後が残ってるんだ?』
さあ、知りません。あっ!
私:『私、最初にF外科に運ばれて、それから鹿児島市立病院に運ばれて・・・それで、ですかね』
『ああ・・・転院するときに外されたのか。それにしても場所が多いな・・・失敗したのかな』
前に処置された時は、どちらも意識不明ですから私には判りません。でも・・・
何度も失敗したというのはわからなくも無い
この足にワイヤーを通す作業、当然、麻酔をかけて行う。部分麻酔だけど。
太ももを挟むような道具が用意される。糸鋸みたいなU字型をした器具が膝の上に装着される。
右側からハンドドリルみたいな奴で、ワイヤーがねじ込まれていく。痛くは無いけど気持ち悪い感触・・・そう思っていると、ドリルが骨に到着した瞬間に痛みを感じる。
先生がちょっと落胆した声を上げる。
『この場所は前に使った跡だな・・・』
やり直し。
『う~ん・・・穴を開ける場所が無いぞ・・・もう少し上にするか』
先生、勘弁してください。いや、前の病院の先生な。
4度目くらいの時、いい場所に貫通した様子。
貫通した時の奇妙な感覚は、なかなか忘れがたいものがあります。
その日が何月何日だったか忘れてしまったけど、生涯で一番痛い思いが続いた一日であったことは間違いありません。
この後は、麻痺した右手のリハビリ(これはあんまり痛くない)、膝のリハビリ・・・
あと、足に埋め込まれた金属を取り除く手術の痛い話が続くくらいです。
自分の経験ってのは、誰かの役に立つかもしれないと、こんなネタも取り扱い始めました。
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