一文字山の星空

外付けのハードディスクを整理していたら、あるデータが出て来ました。

日本と中国が戦争に突入するきっかけとなった盧溝橋事件。演習中の日本軍に銃弾が打ち込まれたことに端をはっした紛争ですが、諸説あります。
そのとき、演習に参加されていた一人の初年兵。その役割は、演習する日本軍の最終目的地で『仮設敵役』として演習に参加していた、山崎直人さんの手記である一文字山の星空
紹介するか、と。
文字制限に多分引っかかるけど参考まで。
音声データも出てきたのでそれもそのうち紹介するかな、と。

「一文字山の星空」
 
 「一文字山の星空」について
 
マルコポーロシルクロードを歩き盧溝橋の橋を渡った大理石の美しい橋で
栄定川の流れは美しい苑平県城があり、一文字山があるここの山で事変が発生した。
一文字山の星空 ここのページには私が北京郊外の豊台に支那駐屯軍歩兵第一連隊第三大隊八中隊の夜間練習の時に発生した盧溝橋事件の思い出を語りたいと考えた。
 七月七日お彼岸の夜の事 八十名前後の兵隊でありました。
世界中の一部の人が全然間違った事を平気で理論付けておるが実際は事実は私達しか知らないのです。
昭和十二年七月七日の事変  西暦1937-7-7
山崎 直人
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 一文字山というのは支那(現在の北京郊外)にある山の名前です。
昭和十二年七月七日、この山で行われた初年兵達の夜間演習中に盧溝橋事件が起きました。
初年兵の一人としてその演習に参加していた会長が山頂から見た全ての出来事を、
このたび「一文字山の星空」として文章にまとめて発表しようと思います。
盧溝橋事件の事に対して、八十名の兵隊の夜間演習の実態を、実際に参加していた
会長の体験談を通してみなさんに知っていただきたいのです。
 世界の一般の評論家、マスコミなどでは盧溝橋事件を日本軍が起こしたとされています。
そのことに対して、会長自身は実際の状況とは全然違う事を言われている、と感じています。
実際に盧溝橋で演習をした会長はそれを聞き、あるいは本を読み、
会長が経験した事、感じた事とは全然違う、
日本の兵隊に不利な、日本の不利な説を日本人自身も平気で発表している事を
とても悲しく、遺憾に思っております。
入隊して2,3ヶ月の初年兵がなぜ戦争を計画して起こす事ができるのか。
どうかよくこのホームページを読んでいただいて
わからないところがありましたら、ぜひ掲示板、メール等で問い合わせてください。
 
「真実を、神に誓ってお話しいたします。
 盧溝橋事件はつくりあげた事件ではありません。真実を私は語ります。
どうか日本人であれば日本を陥れるような事を言わないで
実態を話す私の事を信じてください。」
 
2002年7月16日 
「一文字山の星空」

一文字山の星空
「一文字山の星空」について
 
一、最後の演習
 王子飛鳥山の桜も散って夏が来ようとしていた 稲荷神社近くの会館で兵隊検査は始まっていた 
二十歳になって私の所にも検査の知らせが来た 有楽町の日日新聞社の配送臨時社員として働いていた
 昭和十一年二月二十六日朝は大雪で寒く四五人の若者部屋も冷え切っていた 号外だの知らせで飛び起き社に入った
 輪転機は音高く号外を刷り出していた
 都内の新聞販売店に配送の号外をトラックに積み上げた 雪の中を兵隊達は駆けて行き銀座の町は静まり号外を配る鈴の音が何かを創造させる冷たい響きと成っていた
 軍の青年将校の反乱と分った時 撫ぜそんな事が 人々は反乱将校達を応援したい気分もあったかも知れない しかし 日本国民は日が立つに連れて一先ず平和を願った
 二、二六事件から数ヶ月の徴兵検査なので若者達は緊張で一杯であつた 
 医務官 軍曹 伍長 上等兵の検査官は体重、身長、目当の検査を軍隊語とゆうのかてきぱきと裁いていった たむろして たばこを吸っておった者は憲兵に怒鳴られびんたが跳んだ 身が引き締まる思いだった
 甲種合格 これは、名誉ある言とされていた 麻布三連隊か一、二連隊かそれとも赤羽の工兵連隊かそんなことも考えて心配があった しかし 年末に通知が来たのは 支那駐屯軍歩兵弟一連隊弟三弟隊八中隊と記され手あり 昭和十二年二月末で集合は門司であった 支那注屯軍私は聞いた事の無い 軍隊であつた
 門司の港大小の船が出入りしておる風景を眺め エレガントな門司の駅などを一日探索して回った
 きお付けの号令で、いよいよ軍隊の指揮ににはいったのだ
 俺は八中隊の佐藤軍曹だ此れからの指揮は俺がとる相談事分らない事何でも俺の所に来い 
返事が無いぞ 分ったな はい力いっぱいに答えた 何号と軍服は大きさを決めて体に合う物に決め兵隊らしくなった
 輸送船に乗る為に艀に乗り天気は悪く波は高かった 縄梯子を上るのだがぶらぶらゆれてどうやら船の上に立った
 船の中は底から三段四段に仕切られ手織の床下の上に座ったまま支那に向かった
 玄海灘は可なりの大きい波に船は揺れて可なりの新兵が吐き気を起こし大変であったが肝心の佐藤軍曹も参った様子であった
 支那海に入った頃から揺れが収まりタークウの港に入った
 ごつい古惚けた機関車と客車荷物車組み合わせた列車に乗り 北京に向かって走った  
 高い城壁を左に見ながらこれが万里の長城だの声で、いよいよ異国の支那に来たのだとと強くかんじた
 天津の駅で列車は止まり暫くすると反対側
に列車がはいって来た窓から顔を出して手を振る者除隊兵で入隊の弟の窓に来て抱いてないておる者、すれ違いの面会となった場面であった
 豊台についた ホームも無い駅で回りは畑東側は駐屯軍第三第隊の兵舎だつた
 八中隊の兵舎前で班ごとに並び野地少尉の訓示があり 敬礼で始まり敬礼で終わった
 班長は田口軍曹 高橋伍長であった
 我々の班は八中隊五班である お前等を教育する兵は  上等兵 田子上等兵だと紹介され私達初年兵は全てこの二人の指図命令に従うのである
 三八歩兵銃が一人一人に渡され この銃には此処に菊の御紋がついておる これは きおつけい 新兵は不動の姿勢をとる
天皇陛下から授かった銃だから大切にするんだ 分ったな 返事ない 大きい声出しっかりと言え はい 力いっぱいにいつた 休めの号令で右足を前に出す それからこまごまとした事を繰り返して指導していつた
針一本でも紛失するとびんたが飛ぶ 靴は古く中々ぴったりの靴が無い 便所に行く時も 山崎便所に行って参ります とおおごえで叫び帰って来たときも 山崎便所に行って参りました と挨拶するのである
一通りの軍隊の生活作法は二ヶ月もかかった 鉄条線で囲んだ外は高粱畑になっていて伸びが速く何処までも青く部落が見えなくなってなっていった
何処かで聞いた様な歌声が聞こえてきた  
損な事が何回とも無く聞こえて来るようになってあまり気にもしなかった
歌っておるのは 五、六人かある時は十人前後の時もあった
前進め 回れみぎ 伏せ 前進毎日毎日練習をして何時しか難なく身についていた
教練の広場は日本の山の学校の運動場位の広場であった
ほふく前進の時風と共に黄塵に合い全身
眼だけがぎょろっとして演習そちのけで班長共々笑いあった言もあった
日曜日 故郷や恋人に手紙など書いて自由時間の日である 外に出て柵の近くに立った時何時もの歌声が一段と高く聞こえてきた 
これは労働歌だしかも革命歌だと気がついた 日本軍の兵舎に向かって歌っておるのだ
私は 二年兵に聞いた 
すると あれか 北京の大学生の歌だよ 
時々歌ってるよ と何も気にしない様子弟あつた 支那語で歌っていて目的が分らないが何と無く気になる思いがしていた
彼らが歌っていたインターナショナルは

起て飢えたる者よ
今ぞ日は近し
目覚めよ我が同胞
暁は来ぬ
暴虐の鎖断つ日
旗は血に燃えて
海をへだてっ我等
腕結びゆく
いざ戦わんいざ
誓い起ていざ
ああインターナショナル我等がもの
聞けわれ等が雄叫び 天地轟きて
屍越ゆる我が旗 行手を守る
圧制の壁破りて 固きわが腕
今ぞ高く掲げん 我が勝利の旗

日本でもこのメロデーはメーデーの時に歌われていた しかし 逮捕され二十九日も豚箱に放り込まれる事もあつた
訓練は毎日休み無く雨が降っても風が吹いても続けた 砂利取り場は豊台から四、五キロ位あったのか六十五年も前の事で確かでない 広い面積があり演習にはじゅぶんにかけまわった 砂利取り場で大雨に合いながら走って 突けの号令で剣突きの動作で よおう
と声を上げて進んだ やめい の号令で休憩に入った 藁葺きのみすぼらしい農家いや
作物は出来ない砂利取り場だから何をしておるかは分らない
湿った土間に雨はぽつりぽつりともおり水溜りガ出来ていた 半ズボンで裸足で私達兵隊を持て成しをしていた 突然裸足のにいやは ハャア と 声を出して 六、七センチもあろうか海老の這っているのを素足でふんずけた 蠍であった 危ない危ないと 素足の にいやは 私達兵隊に素振りで知らせた 
砂利取り場の蠍 うかつにに伏せの姿勢も危険だなと考えた
入隊してから 初めての実弾射撃訓練する事になった
豊台の兵舎を出る時は正門隊列を整えて行進した 道路に沿って鉄道があり其の鉄道に入って盧溝橋に向かって行進したおおむね四キロ 砂利取り場は一キロ位手前あった
行進中軍歌を歌って行く事もあった
成るだけ枕木を踏むようにして行進した列車は一日数本で線路は赤さびていた
苑平県城南門を入る隊列をと問え前へ進め城内は町で
両側は商店 勿論中国の兵隊は厳重菜監視の下盧溝橋のある門に向かうのである
門を出るとそこは大理石の立派な橋で 昔シロクロードの道を辿ってこの橋を渡って北京の都に入ったと伝えられていた有名な橋である 其処から一キロ位の原野で実弾射撃が始まるのであるが 百メートルの的を狙うのであるが半数の兵隊はゼロに近かった盧溝橋を渡りながら氷定川のうつくしい景色を後にして苑平県城の門をくぐる時歩ちょうを取れの号令で規則正しく砂利取り場方面の南門を出てほつと一息ついて 鉄道の枕木を踏んで四キロを軍歌を歌いながら豊台に帰った

   戦友  歌った軍歌の一つ
ここは御国を何百里
はなれて遠き大陸の
赤い夕日に照らされて
友は野末の石のした

こんな軍歌を前列 後列に別れて歌いまつたく何処までも広い支那大陸 西に傾く夕日 美しい風景であるが 感傷深くなる時でもある   
隊に帰ると 汚れた服装ほこりの銃の手入れ 二年兵の靴磨き 食事の準備短時間でやってしまうのである
十八のベットが右左に別れ 毛布の中に藻るのが一日の一番安堵したときである ししょうとう ラッパか聞こえてくると
初年兵はつらいもの
又寝てなくのかよ
ラッパは一日の終わりを告げ深い眠りにつくのである
高粱は5月に入るとぐんぐん伸びて私の背より高くなり遠くを見渡すことは出来なかった
労働歌 革命歌は近くに聞こえ人数も増えた様に感じられた 別に気にもならないのか隊の上官も兵隊も無頓着に行動していた
牟田口廉也連隊長が来るとゆうので訓練は激しくなり体は疲れ果てた
大隊全部が活気付一応の訓練は終わった
大隊長一木中佐の号令で気お付けの姿勢をとり 広場は細長く狭かった 連隊長は馬に乗り正門から各班を検閲して八中隊にきた 清水節郎大尉は頭右の号令で軍刀を抜き敬意を称して連隊長の脇に行き八中隊の検閲を受けた
私は一つの失敗をした 連隊長をみてしまつたのであるそれを牟田口連隊長は見て取り 馬上から 俺を見るな 不動の姿勢ヲとるんだ 私ははっとしたそんな事があつたがおこられる事も無く検閲は終わった
三ヶ月初年兵の基礎訓練は終わった しかしまだ面白い兵隊がいた 前へ進めのごれいで 右足と右手を同時に上げてすすむのである それは奇妙な姿勢であるが注意されればされるほど緊張して直らなかった 射撃訓練が続いた
盧溝橋を渡るのは二回目であった 射撃場は橋の先にあり苑平県城内を通らなければ成らなかったのである
門は固く閉められ野地少尉の交渉を聞いてくれず門前で数時間待った
支那二十九軍と日本軍との話し合いはできているはずが支那軍側は聞いていないと門は閉められたままであった
清流刀を持った兵隊が私達を監視していた
待つ間 野地少尉と青竜刀を持った兵隊との刀の試し切りをやろうとゆう事になり六七センチ位のアカシヤの木を切ることになり先ず青竜刀を持った支那兵が構えてふりおとしたしかし半分で刀は止まった 野地少尉の番である軍刀を引き抜き構えて下ろした見事に切り落とした
間も無く門が開いて場内を行進して盧溝橋を渡り射撃場で訓練をした
野地少尉は此れからの戦闘は飛行機の時代になる機会があったら自分は其の方面二行きたいと休憩の時兵隊との談話ではなしていた若い将校も希望を持っているのかと考えた メーデーのころから学生か青年等の行動は活発になっていつた
高粱も伸び暑さが高く汗が絞るほど出た
演習場で二 三日教練をすると次の演習は砂利取り場にいつた 支那人達は我々初年兵の疲れてへたった 様を笑っていたかも知れない 社会主義者の北京の学生等は排日運動を以下に有効的に出来るかを考えて居たに違いない
防毒面が配給されて一日練習をする すばやくマスクをかぶるのである空気が漏れてはいけない ある程度の儀実がいる 
野地少尉の ガスの号令で防毒面を取りだしてかぶるのである 駆け足 伏せ の時でも ガスの号令で面をかぶる
砂利取り場から四 五百メートル位先に永定川方面に山がある海抜はせいぜい五十メートル前後稜線が百メートル位 六十五年も経っておるので正確でない 稜線には砂利取り場から見ると一に見えるので 一文字山と日本軍が独自に呼んでいた
この山の演習が度々行われる様になっていた 其の頃から初年兵の編成変えガ行われ呼吸の強い兵隊はラッパ兵 私は希望して兵器などを整備する兵に入った 上進するのは歩兵の本分である分隊兵であった 
銃工兵が私に与えられた兵隊である
中隊から作業場に行き ヤスリ掛け 鉄を焼いて大ハンマで打ち鍛冶屋をやるのである 鉄の種類硬さ 薬きょう入れやくごの修理短剣当の修理 筆記試験やった作業のあとの試験勿論書き表す事は駄目であった
一文字山の攻撃をやる 私は分隊中隊から外れている兵隊であるので仮せ敵となって
一文字山の稜線で簡単な壕を掘り二年兵と二人で待機することになった
苑平城が斜め左に高い城壁で見事に見え手前は鉄道 正面は永定川の土手で右端には
日本で言えば稲荷神社の様なものであった
竜王廟と支那人は言つていた たぶんお参りしておるのか 人が動くのが見えた 其の外は九十度雑草の野原である 野地少尉の指揮で一文字山に向かって前進してきた
今まで習った動作をやりながら伏せ 歩ふく前進その動作が私には手に取る様に見えた 私は考えた おそらく稜線に向かって突撃して来るだろうと思い右下に下りて待った隊は私である敵がいないので 野地少尉は ガスの号令をかけた 兵隊達はマスクを掛け始めた 私はこの時とばかりに稜線に駆け上がり 防毒面を付けている 野地少尉の尻を叩いた 少尉は私の顔を見て睨んだ 片っ端から肩尻を叩いて回った
面を被るまでには叩き終わった 総会であった 私を殲滅して 防毒面の予定出合ったかも知れないのだ 後で絞られるのではと考えていたが何も無く豊台の兵舎に帰っ
て来た 一番疲れた演習であつた    

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続く。
 
(*故人の残された手記の紹介です)
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