盧溝橋事件の体験者のおじいちゃん

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新しく開設されたブログのほう、久しぶりに訪問したのですが、記事が更新されています。
記事を読んで見ると、どうやら新しい証言者が現れ、そしておじいちゃんの証言とは異なる内容の話をされている様子
おじいちゃんのブログから、記事を引用させていただきましょう。

http://plaza.rakuten.co.jp/taishouojiichan
(原文のまま引用いたします)
2006/5/17
17日の日記
私の知らない仮せ敵のリーダーと名乗っておる人物が出てきたので
ビックリする  可笑しい 平気で こんな大事なことを 発表する
何か 魂胆があるのか 解明しなければならない 60年もたって
おる のも こまる


私は残念ながら、この仮説敵のリーダーの証言を知りません。
しかし、おじいちゃんと話し、さまざまな記録を見せてもらった結果、おじいちゃんの言っている事は
正しい事であると信じているわけです。
ちょっと続けて記事を紹介しましょう。


2006/5/21
21日の日記
六十年は 長かった 盧溝橋の事件知つて居る人より 知らない人
の方が多い 終戦当時のことは 六十歳の老人も知らない
日本が 侵略して アメリカ に 原爆を 落とされ 敗戦になって
支配されている 戦争は嫌だ アメリカ 韓国 朝鮮 中国に 何を
言われても 我慢して 行くのが 一番だ

2006/5/24
24日の日記
探して居ります 盧溝橋事件 今から六十年前の事件に参加した
豊台に 兵隊として 事件に 活躍された方
 思い出の話したいと
考えて居ります


どなたか、ご存知無いでしょうか。貴重な証言はまだ集められると思うのです。
やはり、当事者の証言が重要になると思うのです。



2006/5/26
26日の日記
昔の話 盧溝橋 マルコポーロ は この橋を渡り 北京に入った
大理石の 橋は ぴかぴか の橋 ここで 事件がおきる
支那軍と日本軍 銃を 先に撃って来た いや 日本が先に いや
支那軍が先だ こんな 大事な 事件 なのに 未だに 書物 マス
コミ は 騒いでおる 歴史の研究者も同じ  私の所にも 沢山
メールが 入ってくる 事件を作った 部隊の 兵隊だから 当時
の 本当の事を話してくれ と 質問してくる


2006/5/27
27日の日記
六十年もの昔の事件の話 もう そんな 話 経験した人居ないのでは
ないか 日本を 真実の日本を探りたい人若い人の中にも 沢山おる
関心な人達だと思う
盧溝橋 綺麗な大理石の橋 夢の橋 で日本軍と 支那軍の 発砲
事件 が 起きた 夜間演習を 昭和十二年七月七日のこと 関東
方面から 兵隊に取られた 若者達 初年兵八十名位 二年兵
下士官 指導者 東北の人兵隊 百名位が 支那軍と事件になる

これを 盧溝橋事件と言います

2006/5/28
28日の日記
盧溝橋 事件が なぜ 日本軍が先に実弾を発砲したと 言われるか
マスコミ 作家の左 民衆の左 日本軍人の中にも居るし 事件を起
こした 支那駐屯軍歩兵第一連隊 第三大隊第八中隊 清水節郎
大尉 中隊長も 何を間違えたか トンでもない発言をしておる

盧溝橋事件に対しての メール 歩一連隊の会報に 東北方面か
ら転入隊して来た 歩兵17連隊の兵らしい会員で
夜間演習のなかばに 八中隊の 仮せ敵が 夜間演習の開始時間を
間違えて ばりばり と 機関銃で 40発ぐらい派手に撃った
演習中止の 伝令を機関銃で40発位撃つた


2006/5/30
30日の日記
この写真は 私が旅順陸軍病院から 支那駐屯軍の原隊に帰る時
奉天の駅で半日 停車した時 満州事変の 発端である張作霖
名前は はっきり 覚えて居りませんが 其の時の列車爆破の写真を
記録をとった人から譲り受けた 写真です


これが冒頭の写真です。


31日の日記
夜間演習の仮せ敵は 私 上等兵 初年兵の三人である
軽機関銃 など 持っても居ない のに なぜ 撃てる
八中隊の 下士官4名か五名の 出鱈目を平気で 喋る
愚かな下士官達 中隊長までが 同感 これは可笑しい
と私は 感がえる 東北の兵たち 出鱈目言わず 好く
考えて 見たまえ 仮せ敵 が撃てば 日本軍 が たまげ
るよりも支那軍 が撃ってきますよ

七月七日に 戦いは 始まるのです 八日の朝まで静かな
夜でした



おじいちゃんの証言によれば、一文字山の演習場所は、発砲が認められていない場所であった。
まして、夜間の行軍演習。70年前の盧溝橋周辺は、今のような灯りもない月明かりの中での演習。
発砲などしたら、味方を撃ってしまうだろう
初年兵のみの行軍演習であり、実弾はもちろん空砲すら撃たない演習であったという証言は非常にリアリティを感じます。



2006/06/01
1日の日記
なぜ 私が 六十年も七十年も過ぎ去った事件を出して
申すか 仮せ敵は一発も 夜間演習の時撃っていないし
もし 撃っていたなら 支那軍からの攻撃は 確実

中隊の幹部から 一言の お叱りは無い ビンタ 所か
軍法会議に なるでせう 同じ 中隊の兵を 余りにも
酷い-仕打ちだ演習の中止は   10時過ぎて 待ちに
まつた  演習開始の信号が来た 仮せ敵は 三人の
私達 来たぞと 合図して 分かった の信号を送った
其の直後 支那軍 から 三発の 実弾が 一文字山
に 打ち込まれた のである 


2006/06/02
2日の日記
支那軍からの発砲は 三発 一文字山 の稜線に陣を構えておる私達のところに
落ちた 可笑しい 実包が打ち込まれ 可笑しい日本軍が 仮せ敵二実包を撃つ
筈が無い
 何時間だつたか 私達は じっと 攻撃して来るのを 待っていた夜空
には 空いっぱいに 今にも落ちて来る様な星が輝いていた
伝令が 一文字山に登って来たのは まちくたびれた其の時 誰何して 伝令と答
え 中止 だとよ 支那軍から 発砲された 私達四名で 一文字山を下りて 小隊
に帰った  中隊 幹部 下士官ども が 仮せ敵が 軽機関銃 三機でばらばら
撃ちまくった と 同じ筋下記で 訴えておる
 記録 文庫本 会報 新聞社 マス
コミ
達が 記録発表した事は 七十年近くもの間 世界に伝えられてきた
私に メールを下さる 方達は 日本の 一文字山 に 居た 仮せ敵が軽機関銃
で 支那軍に 向けて 撃つた のではないのですか 八中隊 隊長 清水節郎
下士官達が 文面で 証拠があります と コピーした 原稿を郵送して来ました



2006/06/03
3日の日記
何とかして 日本の下士官が 疎かな発言をした お陰で日本の仮せ敵
が 四十発もばらばら と 発砲した この発言 が 先に 発砲したのは
シナではなく 日本軍だとがんばって居る人がおる 困った 事だ
何とかして とり消さないと 日本は 歴史がある限り 愚かな 下士官
どもが 叫んだことが 残るのでわないか


真実は、どこにあるのだろうか・・・
これはやはり、もっと掘り下げて調べる必要があるかも知れません。

まずどこから手をつけるべきか・・・ちょっと考えます。