おじいちゃんのブログより。

盧溝橋事件の時、仮説敵役として一文字山の上で事件を体験された、おじいちゃんの証言をこのブログでも紹介しています。
http://plaza.rakuten.co.jp/taishouojiichan
うっかりしてたのですが、盧溝橋事件が起きたのは7月7日。
おじいちゃんのブログを見てみると、その頃のことが書かれています。
紹介してみましょう。


7日の日記
http://plaza.rakuten.co.jp/taishouojiichan/diary/200607070000/
厚くて 汗が吹き出てきます 7月7日 70年もの長い思い出です 静かに 考えます
盧溝橋の事を

8日の日記
http://plaza.rakuten.co.jp/taishouojiichan/diary/200607080000/
北朝鮮 小さい貧しい 国だと 私は子どもの頃から ピョンヤン
の 小学校に通う時から思っていた
だのに 日本を 越えてアメリカ までも 弾丸が飛ぶ 驚くほど
の砲撃を日本海に飛ばした 広島 長崎は まだ大きく 人々
は 100万とも アメリカ は 日本を 守る とゆうが 日本海
7発も落ちて居るのに 果たして 突貫 して 戦ってくれるのかね
日本に 落ちてからでは 困るね

9日の日記
http://plaza.rakuten.co.jp/taishouojiichan/diary/200607090000/
盧溝橋の川の水は濁っていた 連隊指揮班の命により タンカ に乗せた
兵隊を 本部の 連隊旗のたつておる 十メートル 下に下ろした 
連隊長を囲んだ 少尉 中尉 大尉 の軍団会議 小高い稜線に立って
真剣な姿勢であった 迎えに来た トラック に タンカに乗せた 戦死兵
を 涙して 乗せた 七十年前の悲しい思い出の 日が 可ならず一年に
一回は来る 靖国神社 の問題 北朝鮮のミサイル七個発射
日本は 何も出来ない ルロウ の 孤児 解放の日は 遠い
台風は沖縄 九州 犠牲 多し


盧溝橋近くの演習場で演習中の日本軍に3発の銃弾が打ち込まれ
その後、交渉が決裂し、紛争状態になった。その戦いで、亡くなった方たちを見送ったのが7月9日の
ことだったのですね。
北朝鮮によるミサイル発射など、日本周辺の緊張が高まっている今・・・
やはり、平和の大切さを思わずにはいられません。

・・・しかし。

戦わなければならない事はあるのだろう
そうして、傷つき、命を落とした方の思いは、大切にしなければならないと思います。



昨年の11月にお会いしたときに伺った話、確かおじいちゃんは平壌で育ったとか。

じいちゃん:『北朝鮮の子供たちと、ブランコをして遊んだもんだよ』
もあい:『北朝鮮に住んでいた現地の人との関係ってのはどうだったんですか?』
じいちゃん:『子供だったから何も感じなかったね。仲良く遊んでたよ』


そんな話を聞いたな・・・と思いながら、おじいちゃんのブログを読んでいると、その頃の思い出が記事にされています。

2日の日記
北朝鮮 平壌の思い出 私が12才の頃 私の家から200メートルさきに
大きな 銀杏の木があって 家も大きく庭は広く 農家で働く人は十数人
畑は見渡す限り 白菜 大根 漬物 キムチ などの 野菜
そこに 10才位の少女が居り 色の鮮やかな着物を着て 私に 家に来て
くれ と ひっばる様にして 誘ってくれた ご馳走は 部屋一ぱい 進め
られたご馳走を 腹一倍 少女の 姉達は大きな木にブランコがぶら下
がり 二人が乗って高く揺さ振り 綺麗な少女は アリランの 歌など
歌い お土産 など貰い 私は家に帰った
北の朝鮮人 私は 彼等を憎めない 共産主義の国 ドウも 困った
拉致 神に祈る 拉致の開放を


当時、北朝鮮にすむ人たちと、日本人との関係は、今言われているような
『侵略者と侵略された側』『略奪者と略奪された側』
というものでは無かったのではないか。そう思える証言です。

北朝鮮という国・・・今、国民は飢えて苦しんでいるといわれています。
その国が、ミサイルを撃って日本を威嚇している。六カ国協議にも参加しないと主張している。
どうしてこんな関係になってしまったのか・・・

やはり・・・










国の指導者によって、国民の運命は決められるという事でしょうか。