子猫殺しの真意?

日本経済新聞に『愛猫の子供が生まれたら殺している』というエッセイを書いた坂東眞砂子さんが、その真意を話しているとか。
その『真意』とやらを聞いてみましょうかね

<子猫殺し告白>坂東さんを告発の動き…タヒチの管轄政府

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060922-00000058-mai-soci
 直木賞作家の坂東眞砂子さん(48)=フランス領タヒチ在住=が、日本経済新聞に寄稿したエッセーで告白した「子猫殺し」。その内容をめぐって余波が続いている。タヒチを管轄するポリネシア政府は、坂東さんの行為を動物虐待にあたると、裁判所に告発する構えを見せている。20日から26日は、動物愛護週間。坂東さんが、真意を語りたいと毎日新聞に寄稿した。 
 ◇坂東眞砂子さん寄稿…子猫を殺す時、自分も殺している
 私は人が苦手だ。人を前にすると緊張する。人を愛するのが難しい。だから猫を飼っている。そうして人に向かうべき愛情を猫に注ぎ、わずかばかりの愛情世界をなんとか保持している。飼い猫がいるからこそ、自分の中にある「愛情の泉」を枯渇させずに済んでいる。だから私が猫を飼うのは、まったく自分勝手な傲慢(ごうまん)さからだ。
 さらに、私は猫を通して自分を見ている。猫を愛撫(あいぶ)するのは、自分を愛撫すること。だから生まれたばかりの子猫を殺す時、私は自分も殺している。それはつらくてたまらない。
 しかし、子猫を殺さないとすぐに成長して、また子猫を産む。家は猫だらけとなり、えさに困り、近所の台所も荒らす。でも、私は子猫全部を育てることもできない。
 「だったらなぜ避妊手術を施さないのだ」と言うだろう。現代社会でトラブルなく生き物を飼うには、避妊手術が必要だという考え方は、もっともだと思う。
 しかし、私にはできない。陰のうと子宮は、新たな命を生みだす源だ。それを断つことは、その生き物の持つ生命力、生きる意欲を断つことにもつながる。もし私が、他人から不妊手術をされたらどうだろう。経済力や能力に欠如しているからと言われ、納得するかもしれない。それでも、魂の底で「私は絶対に嫌だ」と絶叫するだろう。
 もうひとつ、避妊手術には、高等な生物が、下等な生物の性を管理するという考え方がある。ナチスドイツは「同性愛者は劣っている」とみなして断種手術を行った。日本でもかつてハンセン病患者がその対象だった。
 他者による断種、不妊手術の強制を当然とみなす態度は、人による人への断種、不妊手術へと通じる。ペットに避妊手術を施して「これこそ正義」と、晴れ晴れした顔をしている人に私は疑問を呈する。
 エッセーは、タヒチでも誤解されて伝わっている。ポリネシア政府が告発する姿勢を見せているが、虐待にあたるか精査してほしい。事実関係を知らないままの告発なら、言論弾圧になる。
 ◇解説…動物の生と死、多角的議論を
 坂東さんは「子猫殺し」を発表することで、愛猫に抱く葛藤(かっとう)を伝えるとともに、過剰なペット依存社会に一石を投じ、動物の生と死について再考を促そうとした。しかし現状では、多角的で本質に迫る議論には発展していない。
 「雌猫3匹が産む猫を、がけから放り投げている」。この強い表現は、猫への愛情と罪悪感が希薄な印象で、読む側の不快感につながった。言葉を扱うプロだからこそ、意図を正確に届ける工夫がもっとほしかった。
 また、猫への避妊手術は、坂東さんの挙げる野良猫対策とは異なる側面もある。野良猫の7割以上がウイルスを持っているといわれる猫エイズの予防だ。治療法は確立されていないが、体液の接触感染が主な原因で、不妊・去勢手術を施してけんかや交尾の機会を減らせば防ぎやすくなる。
 現代社会の猫や犬は、単なるペットではなく、人生の伴りょとして扱われる。坂東さんに賛同する人は少ないだろう。ただ、私たちが「動物にとっての本当の幸せ」を知るすべはない。動物の飼育を「自分勝手な傲慢(ごうまん)」と考えている人はどれだけいるだろうか、人間に向かうべき愛情が動物に偏って注がれていないか……。坂東さん、そして社会が抱える病理を多数派の意見で押し込めてはならない。【鳴海崇】
 ◇子猫殺し 坂東さんが日経新聞8月18日夕刊でエッセー「子猫殺し」を掲載。飼っている雌猫に避妊手術をせず、子猫が生まれるとがけ下に投げていることを明らかにした。日経にはメールと電話で延べ1497件(今月19日現在)の意見が寄せられた。「残酷で不快」「動物愛護の精神に反する」「生命を軽視している」「避妊手術と、子猫を殺すことを同列に論じるのはおかしい」など、大多数が批判。少数だが「納得できた」「これからも生と死について書き続けて」との賛意もあった。


はい。真意とやらを読みました。読んだ上で申し上げる。
言い訳にもなっていない
この人の語る世界は、自分と、自分の飼っている猫だけで閉じた世界なんだろうか。
飼い猫と、自分は同一である。

『飼い猫の子供を殺すとき、自分も死んでいる』

と、文学的な表現で語っているが・・・その子供を生んだ親猫は、自らの子供が殺されている事をどう感じるのか。それとも、生んだだけで殺されるから、親になるという意識も無いのか飼っている猫と自分は同一であると言いながら、殺す子猫の親猫には何の思いもはせていない。

まさに、この方がおっしゃるように、だから私が猫を飼うのは、まったく自分勝手な傲慢(ごうまん)さからだ。という言葉、そのままなのだろう。


子猫を殺さないとすぐに成長して、また子猫を産む。家は猫だらけとなり、えさに困り、近所の台所も荒らす。でも、私は子猫全部を育てることもできない。

動物を育てるとは、そういうことでは無いのか?
動物を家族として育てる。これが、家族であったとしたらどういうことか。


『毎年子供が生まれる。殺さないとすぐに成長し、食べるものにも事欠いてしまう。家は子供ばかりになってしまう。子供全部を育てる事など出来ない。』


明らかに犯罪です。こういう人がいたとすれば、どう言うか。

『育てられない子供を何故作る?』

飼い猫という存在は、この坂東真砂子という人の『保護下、管理下』にあるわけだ。
子供が出来ないようにコントロールする事が、当の猫に出来ないのであれば、その保護者が行うべきだろう。避妊手術もその一つであろうし、交尾をしないように隔離することも出来るのでは無いのか。
それを、『生命の尊厳を奪う行為』だと言うなら、それらの事になんら手を打たず、生まれた子猫を殺す行為は、『生命に対する尊厳を冒涜する行為』と言わざるを得ない。

自然のままに任せるのであれば、交尾も繁殖も自由にさせれば良いだろう。
自然の世界であれば、その子供は自然と淘汰されるだろう。その淘汰を飼い主が自分の手で行う。
それなりの責任の取り方かも知れない。ある意味、飼い切れずに捨て猫にしてしまうよりは。
しかし・・・愛猫の生まれたばかりの子供を、自分の手で殺す行為・・・
坂東真砂子さん。あんた・・・



『神』にでもなったつもりかね。

ああ・・・上手くまとまらないけど、気分が悪い事件です。