運慶展、明日まで
神奈川県の『金沢文庫』っていう博物館で、運慶展ってのをやってまして。
平安末期から鎌倉初期にかけて活躍された、恐らく日本で最も名前が知られた仏師では無いかと。
大威徳明王像です。その縁もあってか、今回の展示が実現したとか。
その大威徳明王のお姿は、下のポスターの左下に見えます。
そんなに大きくない展示スペース。2階に運慶の作品が展示されている、と。
そして、いつもの十倍くらいの混雑(^^;)
運慶の真作と言われている作品と言うのは、実はそれほど多く残っていません。
そのうちの、半分位がここに出張中という状態じゃないか、と。
後の修復によるものかも知れないのですが、所々剥げた金箔と、その下の、恐らく漆で仕上げた黒い肌がなんとも絶妙な感じ。今にも語りだしそうな『命』ってのを感じます。
ただ、すぐ隣では、非常に詳しそうなおじさんが、連れの女性に解説してる声が聞こえて来まして・・・
『この作品は、木取りを間違えたと私は思ってるんです。あの、首のところ。ちょっと後ろに行き過ぎてるでしょ?あれは、バランスを間違えたんじゃ無いかと思ってね。だけどね、そんな事言うと、『お前ごときが運慶に物言うのかっ!』って言われましてね~』
え~とな、おっさん。あんたが有名な仏像研究者かなんか知らんけども。
仏像の姿に、バランスなどという感覚を持ち込むのは意味ねーよ。
頭の上に十一の顔を載せた十一面観音、その右手は、膝あたりまで伸びている。
如意輪観音は、6本の腕をもち、立てひざでゆったりと座っている。
大きな仏像になってくると、見上げた時にバランスよく見える為に、頭部を大きく作ってある。
どれも、人間をモデルにしたわけではなく、儀軌に基づいて、それを再現するために、人の姿を借りているだけであって、その形が不自然な姿であっても当然の事。
そこに、『命』を感じるか。そこに『人間をはるかに越えた偉大な力、慈悲の心』を感じるか
そ~いうところがポイントなのではなかろうか、と。
おそらく、誰の目にも触れない状態で置かれていたからでしょうか。その全身は金箔で覆われており、美しいお姿です。
だけどね・・・
人々の信仰の対象として存在していなかった、いわば『引きこもり状態』のこの大日如来。
技術も、姿もすばらしいのかも知れないけども。逆に、『命』を感じない。
そんな感覚を覚えます。
むしろ、その隣にあった、極彩色の帝釈天の方がかっこよかったですねぇ~
その次のコーナーに行きますと、人だかりでどっちからどっちに動いてるのか分からない状態。
とりあえず、いつもの順路で、左から見て回ろうと思ったら、何故か私が見た日は、出口側から人が並んでいたようで。
最初の毘沙門天を見上げて、『かっこいいなぁ~さすが運慶・・・』と暫らく見とれてたのですよ。
おそらく5分くらいぼーっと見てたのだと思うんですが。
私の前に居る人も、同じように見とれてたのかと思ってたのですが。
『なかなか動かないけど、じっと見れてらっき~』ってな私を、どうやら、前の人は『逆回りして見てる奴を通せんぼだ!!』と頑張ってた様子。
そろそろ、角度を変えて見たくなったんで、前の人に
『悪いんだけど、場所入れ替わってくれます?こっちの角度も良いですよ~』
そう、声をかけたら、びっくりしたような顔して私の顔を見つめてるわけです。
『悪いけど、場所かわってくれる?そこと、ココと』
なんか、不満そうな顔をして、列から離れ、それから人が流れ出す・・・
あ~私が原因の一つで渋滞してたかぁ~でも、金沢文庫はこっちが順路だろ。。。
そんな事をおもって改めて毘沙門天を見上げますと、右から来た女の子が、
『見てっ、邪鬼可愛いっ!!』
と。そう、毘沙門天が踏みつけている邪鬼、これがとっても可愛いんですよ。
おもわず可笑しくなって、その子を見てニコニコしてたら、『あっ!ごめんなさい!!』と。
『いやいや、可愛いですよねぇ~この邪鬼。やられ役のコメディー役者でしょ、これ(笑)』
なんか、気のせいか周りの空気が和みました(笑)
『この時代に、ユーモア入れてるって凄くないですか?だって、上の毘沙門天のかっこよさと、やられてる邪鬼の対比、これユーモアのセンス抜群ですよね』
などと、しばし回りの人たちと邪鬼と毘沙門天について語る私。
学術的にどうこうという見方より、こういう見方のほうがふさわしいんじゃ無いかと思ったりもして。
そんな金沢文庫の運慶展、明日が最終日。
(*あくまでも個人の感想です)
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新燃岳の噴煙は、多少収まり気味だとか。
しかし、桜島の降灰に慣れた鹿児島の後輩も『あんな粒の大きい砂礫が降るのは初めてだ』と驚いています。
宮崎には苦難が続きますね・・・。
頑張れ、宮崎!!