傷ついた兵士、大陸を歩く。

すでに故人となられました、山崎直人さん。

盧溝橋事件が起きた、一文字山の演習の際に、『仮設敵』として一文字山の上で待機していた際に

夜中に3発の銃弾が発射され、自分のすぐ近くに着弾したと証言されていました。

歴史の転換点となった、その場にいらっしゃった生き証人の手記。ワードのデータが手元にあります。

紹介するのをためらっておりましたが、そろそろ良かろう、と。


一文字山で発砲された後の事が生々しく記されています。



傷ついた兵士、大陸を歩く
 盧溝橋の事変が勃発して毎日豊台の兵舎は細かい作業が次々と出てきて忙しい日が続いた。
 
二十九軍が可なりの戦闘準備をしておる。

駐屯軍を包囲して攻撃準備をしており慰留民も何とかしないと危険だ。

そんな恐い話がどんどん入って来るのであった。

 
私達一兵卒には何一つ分らない 只支那軍に包囲され徹底的に遣られる事は明らかである。

死有るのみ。

そんな事は北京に来る時に覚悟の上であるから死に対しての恐怖感は全然沸いてこない。


 作業をやつておるのは戦闘準備である。弾薬は精一杯渡された。

体一杯ぎっしり鎧、兜を身に付けた感じなのかいつ出動命令が出ても万全である。

只し心配なのは主婦、子供、慰留民である。

 どう考えても、敵のど真ん中であり考える余地の無い条件であつた。

兵隊達は、戦う兎に角戦うそれしか感える能力が無いのだ。

豊台の兵舎の周りの様子もだんまり切った熱い空気でもくもくと戦いの時をまつていた。

支那軍は、攻めて来ないこんな事も又考えさせる事でもあつた。

 7 月27日深夜集合が掛かった。(注:盧溝橋事件は7月7日の夜中。即戦争になったわけではない) 

 『準備は良いか』 中隊長の声が闇の中から聞こえた。

 『これから南苑を攻撃する。強固な軍であるからそれぞれ今日まで鍛えてきたものを発揮して戦って

貰いたい この戦いが日本の大事な決戦である存分に戦つてくれ。』

大隊は闇の中を前進した。私はどの方面に行進しているのか分らなかった。

只前の兵隊の後を離れない様に銃を担いで数時間歩いて、南苑城付近と思われる地点で、右に左に

何回か移動した。

 高粱畑が背の高さよりはるかに高く、前に進む度にがさがさと大きく揺れた。

野地少尉が居なくなったので岩井曹長が指揮をとつていた。

夜がうっすらと明るくなって来ると隊は活発に動き始めた 何となく前方に大きな圧力が感じられる。

南苑城かなと思われた。しかし、まだ高粱の茎が並び全方は確認出来ない。

各班事に少しずつ前に進む。二本の立ち木がかすかに見え、農家らしい建物が確認できた。

小さな道があり其処に分隊が出て何歩か前進した。とたん、敵の銃火をあびた。

その際何人か遣られたのか分らない。

高粱畑に隠れ、伏せをとる。『やられた』 『確りしろ』 彼方此方に呻き声、励ましの声。

私の2メートル先にいた分隊長は倒れ戦死した。

前え前進、進めいつせいに、高粱畑から飛び出して進んだ。

しかし私は強い衝撃を受け立ち上がれなかった。左肩貫通銃創左胸貫通銃創で戦死となつていた。


 高粱畑は太陽の熱で焼けついていた。何人の兵隊が戦死したのか私には今日に至るも分らない。


 広い真っ赤な高原であつた。私は 何を考えるでも無く、とぼとぼと歩いていた。

透きとうった池があつて其処を通り過ぎて2  ,3の真っ赤な猿滑りの花が咲いていて其の下を潜り

歩いた。

一羽の鳥が私の足元から飛び立っていつた。

『何だ鳩か』、立ち止まって見ていると、50メートル先で一生懸命に何かを叩いているのだ。

鍛冶屋か と思いながら歩いて行くと一面のお花畑になつていた。

何処までも続いていた風も無いのに涼しく音もなかった。

私は『こんな所歩くのを求めていたのだ』と、いい気持ちで歩いていると何処からか知らないが、

『兄ちゃん』と呼ぶのだ。

 振り向いて見ると妹の孝子ではないか。『おお孝子じゃないか』

私は 駆け寄ろうとすると、『母ちゃんがあっちにいるよ』、と前方を指差した。

私はその方を見ると、綺麗なお化粧をして私を手招いておるのだ。

私は『行くよ』と言って孝子の方に向くと、もう孝子は居なかった。

私は夢中に、母の手の振る方へ歩いた。なかなか進まなかった。

そんな事を考えて居るうちに母の姿が見えなくなってしまった。

散散探したが、美しい花園と門のある家しか見つからなかった。

 私は 柔らかな美しい花のジュウタンの上に横たわり静かな涼しい音の無い気持ちの良い眠りに

ついていつた。


(1)  私は時々、人間の死は、苦しんで、死より、実に、何の痛み、悩みなど、無く死する時が有るのだと

(2)  私が 癌に近い病気をした時。10時間も掛かる切解の時、うった麻酔は全く痛くも無く完了して

   しまうのでびつくりしました 2回やりましたが実に麻薬の力は神秘的だと思います。


 私が 銃弾に倒れたのは明け方の五時頃だと思う。

南苑城の支那兵との凄まじい弾丸の音銃激戦の音を聞きながら深い眠りに付いたのである。

高粱畑の中で太陽の熱で吹き出た血痕は腐敗してゆき、野放しの豚に集っていた、ハイの集団は

我さきに人間の美味い血液を吸って、卵を産みつけて一日を楽しんだに違いない。

戦死した兵士は何も言わない。何時間、何日そのままにして置いても何も言わない。

泣いたり、笑ったり、故郷の日本を思い乍ら死んだのだから。


 高粱畑の戦死者を回収とでも結うのか、数人の兵隊が来てトラックに載せていった重ねて

積んだのであろう。60数年も前のボロトラックだから何台来たのか分らない。

兎に角員数の戦死者をかき集めて敵の来ない内に引き上げて行った。

凸凹道を小さな部落を畑や高原をトラックは走った。


 以上の 11行は 私が倒れて眠っておる間の創造として私達を収容した様子を後に生還して

感じたのでありまして 事実であろうと私は今だに思っております。


 戦死者を乗せた トラックは凸凹道を飛ばした 敵の攻撃を受けないうちに豊台の兵舎に

向かって行、上下30センチも飛び上がった。


 私は眠りから覚めたのである。

何だ、これはトラックの上ではないか。私の上に乗って苦しい。

傷も揺れると痛い。車が上下すると顔をどんどんとぶつかる物がある。

良く見ると、どうも、人間らしい。生の反応が無い。戦死兵だな。私達は救われたのだ。

バフンドして相手の顔が私の顔にブツカッテきた。痛い。

岩井曹長ではないか 目は二つとも開いて、歯を噛み締めていた。

只車の揺れるまま揺れており、私自身1センチも体を移動する力も無かったのである。

前の方には他の分隊上等兵が目をつぶって、揺れておった。


 太陽は可なり西にかたむいており、四時頃なのかなと考えていた。

私達を乗せたトラックは太陽の沈んだ頃豊台の兵舎に着いた 何台のトラックが行動したのか

分らなかった。


 待ち構えていた衛生兵により車から降ろされ私はタンカに乗せられて兵舎に入った。

そこは私達八中隊の兵舎ではなく負傷した兵の野戦病院となっていた、豊台駅の線路に近いなと

判断した。

 銃、剣弾薬すべて、時計までも預かりとして、着たきり雀にされた。認識票も無かった。

 私を、見に来てくれる者も居なかった。兵舎の中は15人位の負傷兵が寝かされていた。

奥の半分は通信隊が入っていた。

電信の音が絶え間なく続き兵隊の出入りも激しかった私がこの兵舎に入ってからリバノールを

一回塗ってくれた。只痛さを堪えており、もしかすると死ぬのであろうと手当ても無いのかもしれない。

もうろう、として眠気がくる。

そのまま死ぬのかもしれない、そんな事をも考えては慌しい音を聞いては目を開いていた。


 突然寝ていた兵隊が叫んだ。

おう大変だ 通州がやられている。女、子供、兵隊全滅状態。

大変だ俺は通信隊だから今の信号は良く解読できるのだ。』

 只傷付いた兵は黙って沈黙していた。

 それから1時間もしただろうか、豊台の兵舎に向かって支那兵の銃激の音がした。

兵舎の壁にあたり跳ね返る音、起き上がろうとする兵士、外では駆け回る軍靴の音。

対戦に入ったらしく激しく打ち返すわが軍の機関銃。 38歩兵銃の音。どうする事も出来ない私達。

間も無く撃退したらしく静かになった奥の通信兵達も落ち着き電信の音がしていた。


 八中隊の兵舎は近い筈だがこの有様ではおそらく駆け回っておるのではないか。

一目会いたかったが諦めることにした。





 
(*あくまでも個人の感想です)
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