傷ついた兵士、大陸を歩く(2)

歴史の生き証人とも言える方と奇しくもめぐり合い、お会いしてお話を聞き、そしてその方が発表したいと

望んでいらっしゃったワードのデータを公開する事にしました。

当時20歳前後の新兵であった山崎直人さんの記録です。



傷ついた兵士、大陸を歩く(2)


 翌日7月29日朝私はタンカに乗せられて豊台の駅から貨車に寝かされた。

何処に行くのかも知らない。運ばれるままに、聞く元気も無い。

運ぶ兵隊等が知らないのだから兎に角静かな村か町にゆくのであろう。

 2時間もした頃。汽車は、ことん こっとん と動き始めた。

何の声も掛からず、負傷兵も只黙ったままに、カッタルイおとを出して走ってゆく。

 それぞれの兵士がそんな空間の中で考え、思い出して、涙する時でもあつた。

汽車は何処かの駅で長く止まり又走っていった。

途中僅かながらも、銃の攻撃を受け、停車して反撃の様子を感じた。

スピードの無い速度で汽車は走った。何処を目指して行くのか、見当が付かなかった。

 汽車が止まって暫くして貨車の扉が音を立てて開かれた。

『何処ですか』の声に、『天津だ。ご苦労。下車だ』

 歩ける兵隊は、降りていつた。数人はタンカに乗せられホームにおり駅に待っていたトラックに

乗せられた可なり大きい駅だ。人も多く開けた都だと感じた。

 着いた所は、日本人界の小中学校であった。講堂に寝かされた。軍医、看護兵が負傷兵を

てきぱき、と治療をしていつた。私のところに来た 三角筋を剥がし治療に入った。

『まあー』と言う声がした。脇に見ていた、慰留民の婦人会の奉仕団の綺麗な女性達であった。

治療が終わると飯の時間となり私は、日本の機械商社の天津支店の奥様から御かゆを口に運んで

頂いた。張り切ったものが、解けて、安心感がどっと沸いてきた。と同時に何となく涙ぐんでいた。

 天津は、商業、工業共に盛んな都である。例えば東京が北京ならば天津は横浜であると奉仕団は

話してくれた。ある程度安心感と緊張が解けると、負傷した胸が痛んできた。

化膿し始めたのである。暑さも傷には悪い、しかし手当ての薬品もない状態であつた。

 翌朝、移動すると言う事でタンカに乗せられ、天津駅に行き貨車と客車の連結車に乗り

2、30キロの速さで走り始めた。幾つかの駅で休んでは走るカッタルイ汽車であつた。

 線路に石を置いたり、夜は小規模乍銃撃があつたり、やはり緊張して無駄話をする者は居なかった。

汽車は北支を離れ満州を走っていた。多分夜中であろう、突然、猛烈な銃激と共に迫撃砲の攻撃に

汽車は急停車した。負傷兵は、『来たな』 と軽症の兵隊は銃を持つて撃ちまくっていた。

私は只寝たきりの情けない兵隊で30分位いで敵は、退散した。

護衛兵が回ってきて被害を聞いて回ったが幸いに、怪我人は無しと安堵した。

関東軍の兵士達であつた。まつたく、在り方いと思った柳条湖、この辺は年中馬賊がやって来るのだ

と 話しておった。

 汽車は、高原、畑、山、小さな村、大きそうな町を、休んだり、走って、大連に着いた。

長い時間停車して、走った大きな町を後にして、民間の日本人に手を振って送られ、旅順へと向かって

いた。私は旅順に行くのか、初めて其れを知った時何となく張り詰めた心が安堵したのか傷の痛さが

沸いてきた

 汽車は、快適に走り旅順に着いた。海の潮風で空は快晴であった。

タンカに乗せられホームに降りた日本婦人会の襷を掛けた慰留民の方達が私達を向かえてくれた。

感謝の涙が沸いてきた

 『ご苦労さんです』 『ご苦労さんです』 あちこちで叫んでおる声が聞こえた。

何台ものトラックに乗せられた兵隊は、町の外れの旅順の病院に運ばれた。

赤十字のマークをつけた白いぼぅしをかぶり白の看護服の女性が歩ける傷病兵を連れて、看護兵と

共に病院に運んだ。私は、看護婦二人にタンカに乗せられたまま掛け声と、ともに持ち上げられ、

病院の中に入った。


 下ろされて、看護婦から 

官姓名は』

 『はい 支那駐屯軍歩兵第一連隊第八中隊二等兵山崎直人であります』

『はい分りました』

暫くして、看護婦長が来た。看護婦は規律して 『申し上げます』 といつて私の官姓名を報告した。

『はい 山崎さんは ○○軍医の所へ』 『はい』 

私は、治療室に運ばれた。女性の赤十字看護婦達は全く軍隊そのものであった。

上官の命令は絶対であるのだつた。


 ここで 知らせて置きたい事がある。

負傷兵の少尉大尉であっても看護にあたる赤十字看護婦には

上官と同じく従わなければならない決まりがある。

 私は 診察の台に乗せられた。軍服は、南苑でやられた時のそのままであった。

仮包帯、三角巾とシャツが体に張り付いて、軍衣は、肩から腕に掛けて挟みでばりばりと切つて

脱いだ。

痛いの何のこのうえ申す事は無い痛さであつた。軍医は『何だ蛆虫じゃないか』

蛆虫は私の血をを吸ってうようよと、這いまくって居たのだ。看護婦達も驚いた声を発していたが、

私は 痛さのあまり目をつぶり我慢するのが一杯で一匹の蛆も見ずに処理された。

肩から胸に貫通の穴があいておる所にリバノールの長いカーゼを通すのだ。 

綿棒で押しながら穴に入れる痛さ、もう沢山と言いたくなる。

看護婦の頑張れの声に励まされ体全体を拭いて綺麗になつて病室に入りベツトに寝かされた。

 安心、頑張り、恐怖、死、父、母、兄妹、友人、自然、美味しい食物、初恋の女性、鬼たち、キリスト

 私は、可なり長い眠りに入っていた。そして、様々な夢を見ていたのだ。

取り留めの無い夢を見続けていたのである。
 
 『きをつけい』 大きな声でどなり ○○室○名現在異称なし。点呼であつた。

軍医は一人一人を見て回った。私は食事もせず、夜の点呼まで眠り続けたのだ。

傷は治療により和らいでいた。


 病室は、木造で古く部屋は暗かった。

三十人の負傷兵がぎっしりとベツトの上に横たわって、何を考えているのか。

静かで傷の痛さを堪えていた。所々で、痛い痛いと叫んでおり、白い制服の看護婦が来て、手当てを

していく。夜中にも、懐中電灯を照らして、ベツトの間を通り抜けて行く何回か一晩の内に回ってくる

のだ。朝になると東の透き通った窓ガラスが開けられる。

旅順港からの海の塩風が入ってきて生臭い空気を綺麗な気持ちの良い空気と入れ替えてくれる。

其の外に何となく植物の匂いが風に乗って入って来るのだ。

私はその良い匂いを尿瓶から離れてトイレに行ける様になってから初めて知ることが出来た。

旅順陸軍病院の周りはりんご畑に囲まれていたのだ。青い葉っぱの茂る間から赤いりんごは

太陽に照らされ光っていた。

 この病院に着てから、何日になるのか私は考えてみた。一ヶ月位か、親しい戦友も出来なかった

又そんな余裕も無く傷の貫通の穴が段々塞がって行くのを毎日楽しんでいた。

化膿していた傷が化膿しなくなると目に見えて、肩から胸までの穴は奥の方から小さく成って

穴は塞がっていつた。包帯交換の治療も痛くなくなり、毎日の治療が三日になり、感える余裕が

出て来るのであつた。

 婦人会、在郷軍人会、学生、個人、民間の多くの慰問が毎日きて奉仕活動をして、負傷兵を

労わって行った。

赤い林檎は、甘くて匂いの良い美味しい林檎であった。

 看護婦達は、私を『山崎さん、ここを綺麗にしませう』とガーゼにアルコールを染ませて固まった血液を

擦って落としてくれた。軍医は私を見ると、『蛆虫さん』と呼んだ。私は、怪訝な顔をしていると、

『始めに来た時、蛆虫がうようよ居たんだよ』 と、看護婦達と笑っていた。 『層でしたか』

 そこで軍医が、蛆虫さんと呼んでいた事が分って納得した。
 
 南苑の攻撃で倒れ夜明けから夕方まで眠り続けていた時に、野放しにしておる豚やロバに

たかつていたハイ、やアブ達は戦死した戦友達の血を吸って、動物等のたらかした糞に卵を産み漬けた

のであろう。私の傷に産み漬けた蝿どもは、南苑の蝿か。

豊台から天津、奉天、旅順の間に生存する蝿ども等である事に間違いない。


 l旅順港は港町である。山に囲まれており海からの入港口は狭い、奇麗な軍港であつた。

日露の戦いに広瀬中佐が入港口に船を沈めて封鎖した。

其の時部下の杉野兵が居なくなり、沈む船の中を『杉野 杉野』と叫び探し回った。

私が少年時代に国語で日露戦争の勉強した、その現場に私が立っておる。

支那になぜロシヤが莫大な土地を占領して居たか悲しいながら詳しくは知らない

旅順陸軍病院、木造であつて廊下を歩いて治療室に行くとぎしつく所もあり古い建物であった。

傷の痛さも大分とれ看護婦の包帯を巻いて貰うのもだんだん楽しく成ってたつた。

外の散歩も許される様になった。日本人の家も可なりあり裕福な生活をしておる感じであつた。

ロシヤ風の建物もかなり見られ、山側にはりんごが真っ赤にのどかさを感じさせ私の心は自然と

冷静さを取り戻していつた。

戦争、無残、国、家族、東京、人、悩み、様々な事を考えベツトに寝ておった。

牧師の○○先生に手紙を書いて見ようと私は、たどたどしい字で書き始めた。

『今は旅順の陸軍病院に肩と胸を怪我をして手当てをして居ります。

戦うこと。相手を傷つけ、死す事。私達も同じ事、悩みは大きく、沢山有る事。先生のお考えを』

と、書きました。難しい手紙ではと思い乍箱のポストに入れた。
 
 肩の傷穴完全に塞がった。何となく頭も首も軽くなってくる。胸はかわきつつパリ痛かった。

散歩は毎日許された。百メートルから200メートルと増やして行き、病院の裏山を歩いてみた。

やっと50メートル位い登り、旅順港を見下ろして一息いれて石の上に腰かけた。

大日本婦人会の婦人が私の所に来て、この土地のことを話してくれた。

この山は、二百三高地と言いましてロシヤとの戦いで日本軍が数十万の兵隊さんが戦死した所です

記念碑が立っております何時か登って御覧なさい』

と話してくれた。


 広瀬中佐の入港口封鎖、東郷元帥のロシヤ艦隊の撲滅、乃木大将の二百三高地の攻略。

日本の勝利しかし犠牲兵は多く傷痍軍人は泣き、家族も泣いた。『廃兵 廃兵』と呼ばれ乍ら

手フウキンを引きながら薬を売り町や村を流し歩いた。『おいっちの薬は良く効く薬』と

私の少年時代によくその様な姿を多く見た。悲しい事だ現在でも、その様な傷が痛く恩給も貰えず

泣き寝入りしておる老人が居る事を考えて貰いたい。戦争が終わると国、人、住民は戦争犠牲者の

事など忘れてしまい、傷痍軍人て何ですかと、役人どもがおる。 福祉課にもおるのです。

 ついこんな事を書いてしまいました。


 私は、二百三高地の碑の立っておる所まで登る事に挑戦していた。傷は完全にふさがり

包帯をはずして軟膏薬を貼るだけとなった。腕は全然動かず、リハビリとなった。

看護婦が手を握って上に下に引っ張って マツサージして白いうどん粉の様な粉をかけては擦った


 すっかり秋となり周囲の山々は赤く染まり港は青く空も 夕日はもっとも美しかった。

 病院の中では一日中笑う声や微笑む姿は見られなかった。三日に一人位は死んでいった。

悲しみは続き看護婦は其の度に涙して作業をしていた。

『蛆虫さん、来たね』 軍医は、私を見て微笑んでいた看護婦等もにこにこと迎えてくれた。

傷が完全にふさがり元気に返つた。私の姿を見ると何となく嬉しいのであろう。

傷はふさがってはいたが段々盛り上がり蟹の様に赤く硬くかたまっていつた。

と同時に、胸が押されて動きがわるい。軍医は『ヘロイドだ。 考えていたが、近い内に手術して

取ってしまおう』 

と言いながら、20センチ強。幅8センチものカツレツ型の塊ヘロイドを切り取る事となった。


 天気の良い日に爾霊山に登ろうと結う事になりそれぞれの傷をもつた傷兵は山を登って行った

高い山ではないが寝たきりの生活をしておると中々簡単な運動ではなかつた。

途中で退却する者も出てくるのであった。

私達の行動にはカメラマンが着いていて何人かを纏めて記念の写真を撮ってくれた。

 爾霊山から眺める景色は日本にも沢山あるが、まったく素晴らしい景色である。

この軍港の攻撃 爾霊山の攻撃には数十万の兵が戦死しておるはずだつた。

乃木大将 東郷大将の勝利により日本は過労じて今の日本があるので、負けていたら、ロシヤの属

国であったでしょうと 誰かはゆっていた。

 爾霊山から上一帯は、何と驚くばかりの壕が掘られ西東南北通路となり、軍港支那海を遥か遠く

望むことが出来た。

これでは、幾ら日本軍が肉弾戦をやっても、溜まったものでないことが分る。

 山を下り乍私は考えた。

『兵隊は死んだ、戦友も死んでいった。申し訳ない俺みたいな新兵が生きていて。

 神かな、いや母ちゃんだ。帰りなさいと手を振った。そして、見えなくなった。』

 
 病院に帰ると 風呂に入ってもよいと看護婦から言われた。おう有難う と 握手した。

何ヶ月も湯に入る事が出来なかったのだ。完全に傷が治ったのだ。私は嬉しかった。

 『山崎直人さん、お手紙よ』 何人かの中に思わぬ人からの手紙だった。

王子キリスト教会の牧師からの手紙であった。ベツトの上で何回も繰り返して読んだ。

 『負傷して大変でした お国の為に戦うことは当然ですから兎に角体を早く癒して元気になる事を

 神に祈ります』

と、一般的な励ましの手紙てあった。戦のいけない事は無く聖書の講義に出てくる暴力殺人当の話は

無かった。私は、他の国で無残な殺し合いをしておることをその悩みを手紙に書いたのであったが

それには一言も無く私は難しい話難しい理論から離れ日常の陸軍病院の生活に戻って行った。

事実上難しい宗教の事から離れる心の悩みから開放される事を願った。

旅順の町を歩くのも10分を目処に許されたロシアの支配下町確かに道も広く建物は見るからに

あか抜けた 私には、珍しい美しいコンクリーの建造物であつた。

秋が深まるにつれ、 空は青く、旅順港の静かな海は写真に撮って置きたい風景である

病院の中に本当の笑いが無い。それは、生の負傷兵が多いからだ。戦いが続いておるからであつた。

病院の周りになつておるりんごは、赤く日に日に濃くなつていつた。

軍医は、私の胸にこびり付いておる、とんかつ条に盛り上がった傷をじいっと見つめていた。

只薬を塗っただけで、3回位考えていた。軍医は 、どうしょうか 切り取って仕舞うか如何するか

考えて居たのだ。内地カン送にするか考えていたのだ 内地日本に送られて如何する

私は考えていた。大半の傷兵は日本に帰ることを願い、あんどの顔色を見せて帰って行った。

私は東京に帰つてもこれとゆうやる仕事も無く、家庭そのものが私を引き付ける様な気持ちが

全然わいてこなかつた。色々と考えた末、軍医殿に取って下さいと頼んだ。

回りの傷兵は日本に帰った方が良いのに、手当て、恩給病院などの事を考えると遥かに良いのに

私はそんな事より戦死した戦友、上官との行動が見に沁みて隊に帰る事の方を選んだ。
 
考えて悩み悩みを続けた末の、決断であった。軍医、看護婦当の医務関係の人は、日本に帰る事を

望み飛び跳ねて喜んでいた傷兵を見てきた。私は変わり者に見えたのでは無いだろうか。

軍医は 『よしやって見よう やろう 大きいが 』 真剣に私の顔を見つめていた。

10月半ばであつた 古い手術台に乗り末裸で看護婦は首から腰まで消毒液をカーゼに染み込ませ

体を擦り消毒完了麻酔注射作業が開始される。

ばりばりと切る音が聞こえ、その度に痛い30センチに近い肉の塊は切り落とされ、軍医は摘み上げ

これだよと私に見せた。糸で傷を縫い合わせる作業に入り針をとうして縫い合わせる時は真に痛い

5人位の看護兵達もおり、はい、はいと答え乍ガちゃんがチャンと器機を置く音が聞こえ 50数針

縫ったらしい作業が終わると看護婦長が、終わったよと叫び囲んで居た医務兵達はほっとした表彰で

私を見て笑っていた。現在の手術は麻痺剤と技術が発達しており格段の差がある。

1週間は痛さがあり胸は突っ張って苦しかった 糸は1月位に掛かって少しずつ抜いてゆき

何箇所かは糸が切れて広がっていた。傷はお陰で塞がり心の休まりが出てきた。

左の腕は上がらずひじが動くだけであつた。傷の痛さが遠のくと203高地まで登りトレーニングを

開始した。此処では何十万の兵が死んでいつた。私も南苑で死んだのだ。しかしこうやつて

旅順の203高地に生きておる。神は、母は私をよみがえりさせて私を守ってくれたのだ、と勝手な

思いを考えていた。にれい山の搭の前で、北支那駐屯軍の隊に帰ることを決断した。

昭和12年12月に入った 連隊復帰 内地歓送何回か私もそれらの兵隊を見送っていた



なんともすさまじい。内地に帰るのが当然という傷を負いながら、なお原隊に戻る選択をされた。

 
(*あくまでも個人の感想です)
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