傷ついた兵士、大陸を歩く(3)

歴史の生き証人とも言える方と奇しくもめぐり合い、お会いしてお話を聞き、そしてその方が発表したいと

望んでいらっしゃったワードのデータを公開する事にしました。

当時20歳前後の新兵であった山崎直人さんの手記です。

傷がいえた後、内地への帰国を選ばずに原隊に戻る事を選択された後の道のりです。



傷ついた兵士、大陸を歩く(3)

12月に入ると旅順の風は冷たく寒い。

病院から300メートルの所昔ロシヤの大使館か本部跡のきばつな大きい建物に移動した。

原隊に帰る兵が待機する兵舎であつた。12月25日クリスマスの日であつた。

内地帰還兵が脱いで行った、軍服、軍靴或は戦死した兵のかもしれない。

軍帽兎に角兵隊の服装に替えた。二等兵である


今日まで前文を書き終わってほっとした。

しかしその後はどうしたのか書く気になれず半年が過ぎた。

どうしてそんな気持ちになってしまったのか分らない。


一端は戦死した私であるが、見事に生き返った。

全てが真っ白でよぼよぼの軍隊の二等兵となって放り出されまるで何も知らない何処かに行く様な

感覚であった。

軍隊の中で有るならば誰か引率者が居て号令をかけて行動をするのであるが、何も無くトラックに乗り

旅順を出発した駅に着き待っていた汽車は貨車が何台かつながつていた。

其の汽車に乗り勝手に座り黙って話しもせず、数時間たつてから点呼らしきものガ始まり、

『山崎直人』と呼ばれ、『君は北京だね』と聞かれた。

『はい』 と答えると、『これで全員揃った』と安心したようであった。

何処を走っているかわからない20キロぐいか。兎に角遅い。

車のは臭いドアーを開けて空気を入れ外の原野を見ているのが清々する。

知らない駅でおむすびが配られる。菓子、たばこ、羊羹、茶などの慰問品が配られほっとする。

たばこは吸わないので他の兵隊に分けてやる。外は冷えて寒い風が吹き荒れておる。

満鉄の機関士が昼夜をとぅしてわれ等を乗せて北京に向けて走らせている。

重たくてのろい汽車だ。何処を走っておるか分らない。

夜が明けて握り飯が配られて『此処は奉天だ』と護衛兵がシャベッていた間も無く伍長兵が回って来て

『昼1時まで下車して自由行動をする好きな所を見学して来い但し寒い町だから気をつけていけ』

兵隊達はおうと喜びの完成を上げ汽車から飛び降り線路を乗り越えて駅から町にに出た。

広い駅前で人影は少なく地面は一面の氷で、馬車が何台か動いている寒い町であつた。

私は、古軍靴を履き氷のはった道路を滑り乍ら4 5百メートル位い歩いて輸送車に帰った

奉天の空気を町の一部を探索した満足感が少しは感じたのである。

兵隊達を乗せた貨車はのろのろと急がず走って行った。

途中暗闇の中を走る我々の列車に向けて、匪賊等の攻撃があったが10分位で退散。

車の中に眠る兵隊等は只だ無言で線路のレールのこっとん、かたんの音を聞きながら薄ら眠りに

入っていた。1週間はなっていない兎に角早く北京に着いて貰いたかった。


要約天津に着いた。貨車の扉を広く開けたホウムに出る事は出来なかった。 

日本兵がかつぱつに動いていた。

私がやられて豊台の兵舎から天津の日本小学校に運ばれ手当てをして貰い慰留民団の婦人会の

美しい機械商社社長の奥さんから介抱され全く感謝に涙した所だった。

何時間たったのか分らないが汽車は相変わらずのスヒードで走り昼ごろだったろうかようやく北京に

着いた。日本兵支那人駅の中は人の多い歩くのに苦労した。

改札口を出て、監視しておる憲兵に、『支那駐屯軍第一連隊は何処ですか』と聞いた。

『聞いた事無い』 とゆうのだ。何処かの軍に編成に成ったのでは、関東軍朝鮮軍、内地軍

北京の町は軍人の町となっていた。北京城内から外に出て豊台に向かった。

枯れた畑、民家は静まりかえつた村、子供達は遊び戯れておる村を日の暮れない内に豊台に

着かねば。懸命に歩いた。支那兵がまだ潜んでおるのではと考えていたのだ。

まだ明るい内に豊台に着いた。懐かしい我が隊の正門に着いた。

しかし、豊台は他の隊が待機していた。


 私は 南苑城攻撃で負傷して帰って来たことを話し、病院を出たばかりで体の疲れで弱っている

事を話泊めてもらう事となった二三日の間に隊の行方を探す事を了解して貰い、兵器置き場の隅に

縮こまって寝た。話しかけて来る兵隊も居らず一人で計画を立てるしかない事が分って来た。

戦地で自分等の行動だけで精一杯なのであって私のような乞食の様な兵には構って居られない

のである。


豊台に止まった汽車に乗って止まった駅に降りて探す事にした盧溝橋の駅で降りて城の中を

探索した。しかし隊はおらず知らないと警備の兵隊はそっけないそんな事をして探し支那家屋の

軒下に寝たりして、悲嘆にくれた。「山岳の討伐の部隊だたら一寸危ないし無理だ」と警備隊長はゆう。

北京の部隊だから其処を探せよ と言われたりして私は旅順の病院に帰ろうかとも考えた事も有った。

最早私の体は病院退院後の体で歩き廻って絃界に来ていた。 

大きな門をくぐり、支那民族と日本兵の行きかう中を北京駅に着いた。

敗残兵其の者であつた私は、土間に座り込んだ何時間眠ったか分らない。

肩を叩く者がおった顔を上げると憲兵であつた 私は今までの経過を話し協力を願った。

憲兵は気の毒の様子でこの先に我々の隊が有るから其処に行きなさいといって丁寧に指示して

くれた。憲兵隊詰め所であつた。

四五人の憲兵がおりカンバンを出してくれ休息として部屋に案内されそこにとどまる事になった

二三人の何処かの兵隊が居た無言のまま夜になる簡単な夕飯が出る。

部屋とはゆうものの変な部屋だ自由に出入りが出来るが高い所に小さい窓が一つ。

『此処は豚箱だよ。支那の豚箱だつたんだよ』

そうか仕方なく壁にもたれ一眠りしようとうとうとして居たが、かいくてかいくて仕方がない眠れない。

誰かが「南京虫だよ、すごいや」其れこそ南京虫の発生で人間めがけてたかってきたのだ。

振り払い振り払いして立つてよを明かした 一夜の世話に成った礼をいつて其処を出た。


 北京の町をさ迷い歩いた。支那民衆のごたごたした町、日本兵のこうばった顔して歩く兵を見つける

支那駐屯軍一連隊がおる所を尋ねた。

『さあー知らない』と殆んどの兵隊は去って行った。

ふかした肉まんを買って長いすに腰掛けてほうばつて食べた。私は、とんでもない事を考えていた。

キリスト教会は無いかと 十字架の絵をかいて万寿やの爺さんに聞くと、「ああ有りますよ」と

この道をこう曲がりああ曲がりと丁寧に教えてくれた感謝して、『シェシェ』と別れた。
 
直ぐに教会は分り其処を訪ねた普通の支那風の家屋でまだ活動はしていなかった様だ。

始めは大分警戒しておったが一時間も話したであろう私は、心の混乱が冷静になり、水代わりに

支那のサイダーを一本買いひと息に飲んだ。

北京駅に一目散に行き駅前にたつた。兎に角手当たり次第に兵隊を捕まえて、尋ねた。

町は一儲けをし様と駆けずり回っておる支那人、日本人 外国人、それに軍人等で行き帰りしておる 

『お前は馬鹿だよ、まだそんな体で隊に帰る。内地に帰れよ。

そして恩給を貰って、好きな嫁さんを貰って平凡に暮らすのよ。』

確かにそうであつたかも知れない。

しかし私は何人かの戦死者の仲にトラックで運ばれ戦死しておったのではないか。

それで、まるで無ゆう病者の様に支那の彼方此方と歩いておつたのではないか。

それに内地に帰っても、どん図マリの面白くない生活が多く、考えると戦地で死に至るも、満足感が

多く感じた。


 そんな事で 現在こうして北京の町を軍服を着てうろついておるのだった。

『おおい、あのな、見つかったぞ』 先日、隊の場所を尋ねた憲兵が私を見つけて駆けてきた。

『ああ創でしたか 有難う御座います』 頭を深く下げた。

北京大学に居るよ』 『ああそうですか 有難う』私は憲兵に規律して敬礼をした。



たった一人で北京の町をさまよい、原隊の場所を探され、とうとう見つける事が出来た。

 
(*あくまでも個人の感想です)
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