傷ついた兵士、大陸を歩く(4)

歴史の生き証人とも言える方と奇しくもめぐり合い、お会いしてお話を聞き、そしてその方が発表したいと

望んでいらっしゃったワードのデータを公開する事にしました。

当時20歳前後の新兵であった山崎直人さんの手記です。

(ブログ主記す)

①誤字、脱字には一切手を加えていません。

②原文は句読点の代わりにピリオドが使われているため、意味を取り違えないように句読点に変更

  しています。

③会話であると分かる部分には『』を挿入しています。

ようやく原隊の場所が分かった所から続きます。



傷ついた兵士、大陸を歩く(4)


憲兵から道を聞いたが、ヤンチョに乗る事にした。

北京駅の界隈には多くたむろしておる比較的奇麗な車を選び、平京大学と

手の平に書いてゾウと言うと、やあと了解、私を乗せて走り始めた。

二等兵の肩章をつけた、私を見つめる日本軍の将校も何人か居たが、人力車は

人並みの中を走って北京大学と書いた大きな門の前に車は止まり降ろされた。

『トルチエン』幾ら 払ったのは忘れたが、兎に角私はたどり着いたのだ。

胸は躍っていた。大学の門は広く感じ、支那駐屯軍第一連隊八中隊が果たして

此処におるのか、心配でもあつた。

衛兵に立つておる兵の所に近寄り入門を願おうとした途端、

『オウ山崎 お前死んだって事に成っておるぞ』 私を抱きしめた。

銃に短剣を付けたまま二人は感激につつまれた。

張り詰めた、気力わ解け、しかし、詰め所に立つて 

『山崎二等兵ただ今旅順陸軍病院より帰りました』

力いっぱいに私は叫んだ。その場にへなへなと倒れそうに成っていた。

衛兵勤務所にしばし休憩手配をしてくれておる間に、軍隊の活動を見ておる

内に、負傷をシナイ前の兵隊に戻っていつた。

『ご苦労 山崎は中隊に連れて行け』

衛兵勤務福沢一等兵と私は中隊に行った。中隊の幹部が顔を揃えていた。

『山崎二等兵只今旅順陸軍病院より帰還致しました』

直立不動の姿勢で力一杯に叫び 思わず涙を流した。

『ご苦労』 それぞれの先輩に労ってもらい班にかえつた。

何人かは知らない兵隊が入っていた。点呼も、食事も、何となく緊張感が取れ

丸さがあった。

夜が明けると、病院から着てきた装身具全てを交換してさっぱりした手の届いた

物に着替え靴は何足かの中から足に合う靴を選んだ。

肩章は一等兵に替え満足であつた。

二年兵も私には、無理な作業を押し付けなかった。

班長はなるたけ重労働を避けて私を除外した。

北京大学の校庭片隅で上着を脱いで裸になって体操をした。

両手を上に上げ高橋班長の号令に私は上に上げた。しかし、私の左手は肩まで

しか上がらなかった。兵隊達、特に高橋班長は声を出して笑った。

真面目にやる私の体操が変わっていて、哀れな兵隊同情の笑いだったに違いない

それに肩から胸までの大きな傷を見て其の痛さを感じたであろう。

まだ完全な回復でわないか、其の事が中隊に知れ渡り周囲の兵隊達が何となく

私に援護体制をとってくれておる事に気がついた。私は、甘えては成らないと

言い聞かせた。確かに負傷した傷は痛かった。小まめに私の出来る事をかたずけ

てゆき、班内も出来る限りきれいにした。余った時間をみては北京大学の校舎を

観察してまわった。此処の学生は東京の帝国大学生の様な優秀な大学である事

はしつていた確かにかくのある品格ある学校らしく思えた。

豊台の兵舎に向かって高粱畑の彼方から、革命の歌やインターナショナルの歌を

喚声を上げて騒いでいた此処の学生は一人も見た事が無かった。

春が近ずく頃、

『よーく聞け我が隊は精華大学に移る。今から移動準備をする明日朝出発』 

対した私物品も無いので簡単。

精華大学は北京の市内より離れ学問に相応しい位置にあり、中国、各外国から

留学しており東洋の模範的な素晴らしい大学であった。

ここで私は、兵器を管理修理する銃工兵を教育する班に入り、毎日其の作業場

に中隊から通った。中隊で訓練する兵は毎日大変である。しかし私の作業は

兵器の機構、その修理の勉強で、苦になる事は無かった。わりとゆとりがあり、

大学構内教室当を探索学生の居らない、がらんとした部屋、図書室ばく大な

英語、写真、教科書が反乱しており、日本軍が荒らしたのか、学生達が荒らし

好きな書を持ち去ったのかどっちとも判断は付かなかった。

銃工兵の仲間からも大変世話に成った。負傷をしてまだ弱弱しい私を庇ってくれて

おる。有り難い話ではあるが、かえつて私は心苦しかった。

精華大学の芝生の上に横になり、生まれ故郷の事を語り合い恋人のことを語るもの

美味しい母の作ったお萩など話は尽きなかった。

間も無く一年は過ぎる北京に着てから、思いも寄らない事変があり、彼方此方と

駆けずり回りやつと精華大学に落ち着き兵隊達は精神的にも軽やかになっていた。

高橋班長に呼ばれた 

『山崎は石井准尉の所に行け。当番兵になるのだ。確りやれよ』 

私は、当番、どんな事をやるのか分らなかった。

石井准尉の所に行き、挨拶をした。

二年兵の当番と一週間当番の任務たる要領を教育され交代をした。
朝飯、昼飯、夕飯、隊の炊事場で出来た、其の外に私の考えた肉などの料理を

付けて准尉殿に食べてもらつた。

汗で汚れたシャツ等は素早く取り替えてもらつた靴は保革油を付けて丁寧に

磨いた。

准尉は中隊の中でも一番幅が聞き恐い存在の人物である。

私は、其の当番兵となり、他の兵隊からは大変だなと言われていた。

兎に角馬の尻尾みたいに付いて回った。味噌、正油、砂糖、菓子、野菜、肉等は

炊事場の班長に一言話せばすぐに手に入った。

馬の尻尾である私を見て兵達は、山崎だとすぐ分るのだつた。

春が来て四月に入ると、私は上等兵に進級した。

召集兵が入って来た。僅かでわあったが隊の動きは先ず動きはにぶくなり

労とる兵の軍隊となつていた。

支那駐屯軍若手の精鋭部隊とされていたが、27師という強い師団となっていた。

また間も無くして大学生、大学卒業のインテリー兵として大分入隊して来た。

関東の学生が多かった。ぞくにインテリー部隊とも呼ばれていた。

私は、北京市内に軍の連絡のトラックが週に一回出るので准尉殿の好きな

チャンチュウ 35度有る酒を買いに行くのであった。

3時間位の待ち時間に、行き付けの酒店に寄り亀の中から汲んでビンに入れて

くれた酒をぶら下げて北京の町を探索して満足していた。

酒好きな石井准尉殿は兎に角喜ぶのだ。

肉をたんまり貰って来て切りフライパンの中に入れねぎを山ほど盛り上げて煮る

正油を入れ砂糖を入れ煮詰まった頃卵を五つ割って入れかき回して准尉殿の

処え持って行く。他の将校も食べるわけで先ず私の得意とする料理であつた。

明十三陵に日本の大学から偉い先生が調査に来られた。

『其の案内と護衛をする自動車を運転する兵隊が道を知っておるから、山崎は

先生を守って確りと護衛するんだ場所は連隊本部の前九時』

 翌日九時に本部前に行くと先生と運転する一等兵と先生が待っていた。

輸送車で先生と私が後ろに座った。私は三八銃を右に置き、出発の合図をした。

精華大学の門を出て四、五十キロある明十三陵に向かった。

色々と先生は話し掛けて来た盧溝橋の事も聞かれた私は知っておる範囲に話した

先生は私が負傷して旅順の病院から帰って来たことも知っていた。

其の戦いの事も聞かれたが兎に角小隊が、徹底的に死角に狙われ苦戦した事

を話した。

 大理石の彫刻 獅子やゾウ様々の動物彫刻が幅の広い道路の両側に

一キロも続き見事で昔の何代かの皇帝の墓を祭る偉大さが良く分る。

車は十三陵の奥くまで入り止まった。

『ご苦労さん』と言い、先生と私は陵の建物、庭、其の周りを回った。

何を見るのかどんな物を探求すのか分らないが二時間余りして陵の脇に

大き穴を見つけて、先生は言つた。

『やっぱり此処を掘つて財宝は持ち去られておるなと』

一人頷いつていた。私はまだこの辺には敵の兵が出のではないかと考えると

銃を硬く握り締めあたりを見渡した。

庭の柿の木に二つの赤い柿が何事も無いかの様に、しずかに美しく太陽に

輝いていた無事に護衛の任務が終わった。

精華大学から大分離れた山のある温泉の湧き出る田舎村に移動する事となつた。

銃器工場に行き仲間の戦友達に移動する事を話別れを告げて班に帰った。

 支那の地図でも有ればどの当たりかが良く分るのであるが、兵隊には皆目

分らない者が多い。まして夜の移動など皆目分らない。

目的地に着いて休息夜が明けて飯ごうで飯の支度、水は井戸で汲み上げる。

支那の家屋にしては大きな屋敷で可なりの高い高官の別荘だつたらしい。

温泉は有ったが温く兵隊達は入らなかった。

小さな別荘地とでも言うのか景色の良い高台に私達の班は陣取った。

『トウヒライラ』 匪賊が来た、といって隊は出かけるのである。

兎に角逃げるのも早く 中々遭遇しない空手で帰って来る方が多かった。


 ある日、四 五人の匪賊を捕らえたと情報が入った。

其の中に女性が一人おるとか。

簡単な裁きに答えなく、革命の歌を歌い手におえる者ではなかった。

列記とした共産軍の尖兵であつて、学のある者たちである。

 支那民族を共産主義に導く者達で一寸や一寸で話は通じないのであつた。

私は石井准尉の世話を懸命にした体が負傷でまいっておる事は、中隊の兵は

知って居るし、度々の出動には隊内の勤務であつた。

中隊には新しい将校が入って来ていた。

実際の戦いを経験の無い人であるから、要領は経験のある兵隊に聞く事が多い

規律は守る。それは軍隊であるから勿論である。しかし敵の弾が飛んでくる時、

突撃の瞬間は経験した兵が素早い。生か死が掛かっておるから素早く行動する

将校も何回かする内に貫禄が着くもので半年もすると大きな戦いに指揮は取れる

様になってくる。

将校以下准尉 下士官の飲み会もあり色々な話で花が咲く。

そんな時私は持て成し係であつた。将校達の剣、軍刀、個人のピストル分解が

出来なくて錆付いたものを手入れする。私の本分である。


 家の宝としていた名刀を奇麗に手入れしたが確かに良く切れ心から味のある

名刀と未だに、その少尉の事を思い出す事がある。


ある日の夕方三人の捕虜を処刑する事になり村が一望する丘で首を跳ねる時

かの少尉は半ば震える思いで、あの名刀で太刀を下ろしたが私には良く

分った。例え匪賊とは言え人間である以上簡単には命をたつのは、その心は

生易しいものでわないのである。


数ヵ月後 景色の良い割と裕福な村から房山、私達はこう読んでいた、城壁に

囲まれた町に転進した。日常使う物資わ殆んど揃っていた。支那民族を相手にする

ピー家もあり可なり繁盛している様であつた。

我が27師団は精鋭部隊で厳格であつたが、ロウトル部隊は大分派手な事も

多かったらしい。

八路軍は、度々現れた。今度こそわと可なりの兵を準備して作戦を練るのだが

支那の国は広いとつくづく考えさせる。山に追い詰めるともう一つの向こうの山に

行き反撃して来る。限り無くそんなことに欺かれてしまう。

共産軍の戦略は日本軍を悩ます賢い戦い方てあつた。

そんな戦が後には民衆を集め蒋介石、日本に我慢の勝利となったのではないか。

ある部落に匪賊が居るとの情報で夜間行軍して包囲した。