傷ついた兵士、大陸を歩く(6)

何故か文字の見難さが解消した様子。改行等は元に戻して見ます。

この手記に書かれた中国の日常は、日本軍と中国人の人たちが共存している事が良く分かります。

言われているように、日本軍は、日本人は果たして残虐非道な人たちだったのか。

(ブログ主記す)

①誤字、脱字には一切手を加えていません。

②原文は句読点の代わりにピリオドが使われているため、意味を取り違えないように句読点に変更
  しています。

③会話であると分かる部分には『』を挿入しています。


傷ついた兵士、大陸を歩く(6

防山、房山どちらか分らないが、其の北10数キロ当たりに鉱山が有るらしい。その付近に『匪賊ライライ』との情報により中隊は真夜中カイカイデ大急ぎで集合討伐に向かった。真っ暗な中進んでいつた。

『山崎』と石井准尉の呼ぶ声。私は駆け寄ると 『尖兵』 『はい』 私は部下一名を連れ先頭に走り、隊の誘導をして進んだ。勿論足音など音を立てず行進していつた。

石井准尉が撫ぜ私を先にたたせたかが分る。行進時に素早く暗闇を進むには人員を選択する間が少ない
 自分の当番兵であり、突然敵にそ遭遇した場合でも『山崎』と直感したのだと私は考えるのであつた。
両側はおい茂った藪であり小さな夜光獣が逃げる音も気持ちの良いものでは無い。
幾ら戦闘経験があつても、知らない土地、山道は危険。20,30メートル先を警戒しながら、真剣に行くのである。
 カスカに前方に光が見えてきた。部下に 『光が見えてきたと行ってこい』 隊は留まり、2名の士官が来て協議。 その光目指して行進した。でかい工場であつた。通訳と下士官が工場に入り、間も無く出てきた。何事も無かったらしく引き返す事になつた。

房山城内の町は平穏であつた。ロウトル兵と、ピー。 遊女との悲しい様な、 面白い様な話もあり、民衆は日本兵のご機嫌を撮りながら一生懸命に生活していた。

朝交代して夕方までは城門は開けられ、自由に通行でき支那の民衆の行き来できて賑わっていた。
日暮れと共に大門は閉める事になっておる。衛兵が 閉めた時、
『一人の支那人が如何しても通してくれと言って頑張っておる』 と、私の所に来た。
私は 話をきいておるうちに、その 素振りで、 

何とかの仕事で 遅くなり一生懸命かけて来ましたが間に合いませんでした。御免なさい。
今日帰らないと、大変困る事になります 

と手を合わして、頼むのだつた。大体の創造で解釈して、私は衛兵に 『明けてやれよ』 と 言って、
衛兵詰め所に帰ろうとすると かの支那人が紙と鉛筆を出して 名前を書いてくれとゆうのだ。
 山崎直人 と書いて渡した。サンチェー何とかと言いながら彼は大門を何度も頭を下げながら帰って
行った。
 もう暗くなり城内は静まりかえっていた。城壁を回っていた衛兵が、西から変な隊が来ると報告を受け
私は衛兵二人で大門を少し明けて、来るのを待っていた。 からん、 ころろん 鈴の音であつた。
 暫くして門の前に来た時手を広げて待てと合図した。駱駝の列は止まった。

 『ヤアー』 と何やら頭を下げていたが分らない。 『シャンナルチ 何処え行くか』 『はい』 指をさして
何とか 言っておる。私は駱駝の背中に乗せておる物を押さえて見たが兵器の部類でわ無さそうであつた。
 ただ二人でりよう脇の荷を押さえて廻り、夜中に運ぶ人間そして真面目そうな支那人達3人を信用して、通す
事にした。 『よし ホウ 良いよ』と言って手で合図した 『シエシエ ありがとう』と言って駱駝の列は鈴を
鳴らして去つていつた。

衛兵警備は 緊張する。無事に済むかな、と思っていると突然思いもよらぬ事件が発生したり、匪賊の襲撃
あったり。夜が明けて交代時間が来るとほっとする。
衛兵が大きな門を開けると其処に昨日閉門の時通してやつた支那人が立っていて 
『サンチエー 大人 山崎さんに面会したい』と言っておると衛兵が連れて来た
私の顔を見るなり 
『サンチエー 山崎さんシエーシエー有難うお陰で無事に済みました。本当に助かりました。お礼に印鑑を彫って着ました』 と言って 四角い象牙の印を差し出した。
 見事に私の名前を彫ってあるのだ昨夜寝ないで作りあげたのか、私は感謝して、彼と固い握手をした。
この印は60年の間未だに 銀行郵便局 市役所の手続きに使っておる思い出の印鑑となっておる。 

 石井准尉は一度も私を叱ったことが無い。何処に行くにも尻尾の様に私はくっ付いて居た。
ある夜突然集合が掛かった。上官達は会食で飲み疲れ、深い眠りに有った。
可なり強い匪賊らしいの情報で、隊は 集合して、各班ごと隊列して大門を出て行った。
しかし石井准尉が体の不調でやつと起き、私と大門を遅れて出た。
隊は先に出て、歩いても歩いても追いつかなかった。
闇の中林の道、畑の道らしき 所を歩き廻った。 真っ暗の暗闇、数時間歩いた何処を如何歩いている事が
分らない。 最早、ベテランの石井准尉さえ、狐に化かされた様に 『観念した』の 一言であつた。

闇の中 『帰ろうと』 石井准尉は言った。防山城はどの方向かも分らない。30分も歩くとかすかな、ランプの光を見つけ、それを頼りに歩いた。支那人の家屋で農家であつた。 やせた、農夫の男は私達を見て驚いた様であった。
私は『防山は何処か』と聞いておるのに脅えた農夫に通じなく、何回も手まねしたりして駄目。
石井准尉が話しても 『プーシ分らない』と手を横に振る。
字を書いて大きい城の素振りをして 『おお メイバイ』とゆぅ事で農夫は案内するといい、30分も暗闇の細道を歩き防山城の門まで連れて来てもらつた。
考えると真に危険な行動であつた勿論石井准尉が隊の幹部に面白く大変だつた事を話した事と思う。

町の中に隊があり、警備の任務に明け暮れた毎日であつた。
私は近所に住む子供達が 馴染んで、私が木戸を開けて出て来るのを待っておる。 
おおむねの出て来る時間を知っており集まって来る食べ残しの食物 カンバンを分けてやる。
子供達の得意げに話すことを聞いてやる。
木戸から覗いて居た女の子も何時の日か私の側に来て家族の話などする様になつた。可愛い子供達である。
 支那のお葬式、城の大道りを着飾って長くつずいて盛大で厳かに墓に行く。墓石も立派かなりの名家に違いない。民家の人達が出て来て見送る。子供たちは、色々と儀式の説明をしてくれた。

 帰順兵が5,60名の支那兵がおる。この隊との話し合いが成されて居た問題は、裏切り、寝返り、偽装。 
どんな 兵達であるかその交称は、判断は難しい。石井准尉は用意された馬に跨り、一人で 手を振って
大門を駆けていつた。大丈夫かなと中隊一同心配があつたが帰順兵の居る村に向かった2時間ぐらいで、
さつそうと 馬を飛ばして帰って来た。 私は、ほっとした。

 防山城の警備は 敵も良く知っていて、若い支那駐屯兵の精鋭部隊であるから、匪賊も避けて近寄って来ない。
 暇な日がつづく。私は、兵器のいたんでおるのを手入れして修理をしたいと 願い出ていた。
忘れていた頃、『山崎 鉄道警備に当たっておる隊にいつて、兵器の修理にいってくれ』 と命が下り、喜んで
トラックに乗り、でかけた。 気晴らしの見学旅行の気持ちで外に出してくれたと思って居たのであるが、とんでも
ない事が勃発した。この隊は一分隊、15名位の老人部隊であった。挨拶をして作業にかかリ、夕方になった
突然 匪賊の攻撃が始まった。さて私は武器はもって居らない。只兵隊達がおろおろしておるのを物の影で
待機して居た。 激しく 機関銃、鉄砲の攻撃がある。
 暫くの静かな時に兵隊達は、どかっと腰を下ろして、一息する。矢張りロウトル兵たちである。
『死ねない 家庭の事を考えると死ねない』 夜がふける頃から、攻撃が激しくなってくる。

『山崎 やってくれ』 私は 『分った、銃と、手流弾何発か下さい』 『分った』 屋根に私は上がった。
立ち上がって周囲を見渡した暗闇で何も見えない じいっと攻撃して来るのをまつた。
捕虜がいて大きな声を上げてる。手を焼いておる捕虜らしい。暫くすると匪賊等の攻撃が始まった。
と同時に捕虜も騒いでおる。 私は、この辺かなと 思う所に二発撃つた。
近くに何人かおるな、と手りゅう弾の震かんを抜いた。
隊の兵舎の土塀に動く匪賊に向かい手投げ弾を軍靴の裏にブツケタ。発火1-2-3-4口の中で数え
力いつばい投げた。しいんとした闇にどかんと大きな爆発音がして又静かな闇にかえった。 
捕虜が騒ぐので私は 『そいつをやつけてくれ』 私が何回叫んでも 隊長の答えはなかった。 
単発的に打ってきた。屋根の上には私一人で誰も上がって来ない。あまりにも捕虜が騒ぐので其の声が
匪賊等に聞こえるのだ。
また激しい攻撃が始まった。『降りるぞ』と叫ぶと 『山崎わかつた た頼むやるよ』 と分隊長の声。
私は屋根に立ちしんかんを抜いて、右に投げ爆発、左に向けてしんかんを抜いて発火1 2 3 4となげた
爆発。 伏せをして銃をかまえて動く者を撃ちまくった。匪賊等もせいぜい10人位だつたかも知れない。
息をきって疲れた姿の鉄道警備隊の兵を見る限り頑張ったのでありませう。隊を離れ、気晴らしの、兵器修理の旅はえらい的外れの旅であつた。
 旅順の病院を出て最早半年は過ぎ 討伐に明け暮れていた 戦闘でわなく蒋介石八路軍の敗残兵との戦いであつた。

 27師団の編成終結昭和13年北京近郊の討伐、警備。同年7月30日 武漢、漢江攻略の為、北支北京を
ターク港にて輸送船に乗り上海に上陸。待機、南京へ進む。南京より輸送船にて、九江、洞庭湖付近の
警備。武漢攻撃に27師団、中央突破作戦 の為 山岳の町、村、渓谷、山々を攻撃。
山岳の稜線、三坪高地で左手貫通銃創をして負傷。大屋田村27師団第一野戦病院に入院。
九江より病院船にて上海の野戦病院に送還。11月10日上海を日赤病院船にて内地へ送還。
14日宇品上陸同日、広島陸軍病院に収容。
11月14日歩兵第三連隊留守隊に転属。昭和14年6月20日、歩兵第二十二連隊留守隊に転属。
七月十八日任歩兵伍長。七月十九日退院 同日現役免除。
 以上が私の軍隊生活を軍隊記録手帳であります。 この 体験を、この後、思い出の記録として残したく。
書いて行き、暇な時ぜひ見て下さい、読んで下さい。 出きるならば、批判なり感想を頂きたい。


すでに故人となられた方ですが、こうして公開する事で多くの人の目に触れることを、きっと喜んでくれ

る事と信じています。



次回に続く。
 
(*あくまでも個人の感想です)
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