傷ついた兵士、大陸を歩く(7)

前回の終わりに、軍歴について書かれているので、もう終わりかと思われた方もいらっしゃるかも。

続きます。この手記を書かれたとき、御歳90歳というご高齢。70年位前の20歳頃の思い出ですから

色々と前後する事も多かったのでしょう。

さて、この手記は、有名な南京陥落の直後に南京に入城したときの手記になります。

この手記から、中国の言うように30万人もの虐殺が行われたのか?

手記には、南京に住む人たちの日常も書かれています。

(ブログ主記す)

①誤字、脱字には一切手を加えていません。

②原文は句読点の代わりにピリオドが使われているため、意味を取り違えないように句読点に変更
  しています。

③会話であると分かる部分には『』を挿入しています。


傷ついた兵士、大陸を歩く(7

武漢攻略 中央突破作戦 第27師団   
 北京ょさらば 盧溝橋よさらば。私達を乗せた輸送船は夜のタークウーを離れた。
一年半前同じ支那の海に入った時は大荒れで寒かったが、今回の海は静かで穏やかに、只、新しい土地に
大作戦に向かう心は、『戦うんだ』其の一転に決まっていた。行く先は、私は勿論仲間の兵隊は知らない。

夜が明け、昼が過ぎ大きな湾に入った輸送船は厳かに進む。 『おお揚子江だって』 『ほう』兵隊等は外の海、又は川、とんでもない大きな港へ入港していつた
下船して 大きな倉庫に落ち着く私は石井准尉の支度夜食の準備終わると、隊の命令を伝令に駆け回る。
其れが当番兵の役名でもある。
私は駆けて行く。

『伝令、明日5時乗船の為倉庫の前に集合、終わり』 『分った』 

そんな事で、殆んど落ち着いて休む時間が少ない。

上海であつた。高い建物が見える。大都会である。
勿論町を歩いた分けではないが、支那民族日本の兵が、ヤンチョ等の交通は賑やかである
又北京とは違った、都会の感じである。

輸送船は揚子江を上って行く。広い海とも思える河口から両岸の見える揚子江の景色は格別に美しい。
数時間兵隊等は船のエンジンの音を聞きながら、静かに眠りそれぞれの思いの夢を見ていたに違いない。
エンジンの止まった所は、南京であつた。隊列を整え隊は、南京城に入場した

都である筈だのに、新しい土がもり上がり家屋は歯の抜けた町で支那人達は、男も女も緊張して、柔らかさがなかった。それに、町は何となく臭い臭いのする町だな、と感じた。

炊事班に石井准尉の支度に行き、特配のお神酒を頂戴して食事に添えた。
南京にどの位駐屯したか忘れたが、思い出して見よう。

私が、記しておるこの記録は、もっと一つの事、場面等の表現が少ないが、そんな、詳しい事柄を語って居ると長くなり目的まで暇が掛かるので、省略して、一通りの報告で進まして頂きます。

南京に入って、二日か三日たつて、誰かが『南京は徹底的の皆殺しの戦いだつたらしい』と、驚いた表情で語っていた。
体操をする位で、城内を探索していた。北の方向に小高い丘があり支那人男女達、兵隊達が見学に来て掃除の行き届いた記念碑に集まっていた。
偉い革命家であつたらしい。城内は無風の活気の無い町であつた。部隊は城内の城壁に近い民家に陣取っていた。

作業とゆぅものは少なく、偉い幹部は今後の作戦を練っておる事は創造して兵隊達は、息抜きの毎日であつた。

城内警備が一週間に一回廻ってきた。私が城壁の衛兵に立った時、積み石の間から這い出して来た。
 『ゲテモノ』 足が百以上もあり4~50センチもある。蛇ではない。大ムカデであろう。
こんなもの毒を持つておる筈だ。短剣を抜いて、真ん中を狙って打ち下ろした。見事に真二つには成らなかった。私達の短剣は切れる様な歯はついていないのだつた。

平然と這い回り逃げようとする百足でを、何回か振り下ろして、ようやく二つに切り離した。
あまり気持ちの良いモノでない、出来ごとだった。交代して衛兵詰め所に帰ってこの話をした。
確かに古い紀元前の都であるから、驚くゲテモノもおるであろうし、神秘的な事も有るのだろうと私は思っていた。
 
夕方に衛兵の交代で城壁に立った。太陽が西に沈む時、北京郊外原野の夕景。城の南京から見る夕景。さあ感じは違うが、日本の夕空を見る鑑賞は皆良いとい得る。
日が落ちて真っ暗闇。一つ二つ遠くにランプあわい光が見える。何となく生臭いにおいを感じる。気のせいかもしれない。
城壁を歩く下の方から、がりがりと骨を齧る音がする。変だ数頭の狼か犬か。争ったりしておる。歩いて行くとあちら、こちらと、その群れは多い。
交代で積め所に帰りその話をすると、 『ああ それは 南京の攻撃で死んだ遺体を城の外郭に埋めた仏様だよ』 と 南京に詳しい兵隊が話しておつた。

南京の町。支那の国の中でも、きれいな町優雅な城と私は思っていたが、全てが立て直さなければ成らない。どん底の町であつた。
攻撃のある事が分れば、出来る限り、はなれ、密かに身を隠して家族を守る。
愛着のある町家等に囚われると、戦はお構いなしに攻撃してとんでもない、悲劇を受ける。戦う時には、一団となって戦う。
同じ死ぬなら戦つて死ぬ。それには、やはり武器が必要なのである。戦は、南京城に立て籠もった守りは、攻撃よりはるかに不利である。
南京に集まり安堵した民衆は、大変不幸の道を選んでしまった。考えると大変残念である。


南京入城の話を聞くとき、『中国は下手を打ったもんだ』とおっしゃっていた事を思い出します。

戦いが行われるとわかれば、住民を逃がして戦闘を行う。ところが、南京では住民を逃がさなかった。
住民を盾にして戦いが行われたという事。

南京を攻撃する日本軍。車など無い日本軍、道もぬかるんでいる。

人が歩いて運ぶ大砲の口径は、『こんくらいのもんだ』と両手で丸を描く。
『当たったって、その周りがすっ飛ぶだけなんだ』との事。それでも、住民を盾にして大きな被害は出たことは
間違いないのだろう。

しかし、人口20万人といわれた南京に、日本軍が駐屯したときに、そこに中国人は暮らしていた。

戦争とは破壊だけではない。占領した場所は、次の足がかりとなる。
だから、破壊されたインフラを修復し、町の人たちが生活できるようにして、次への拠点となる。

そんな所で、住民を皆殺しにするものかね?

答えは分かってると思うのだけど

 
(*故人の残された手記の紹介です)
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