傷ついた兵士、大陸を歩く(8)

ちょっとの間放置してました。
傷ついた兵士、大陸を歩く。おそらく今回で最後になるかな。改めて見ますと12年前に書かれた物。
私がお会いしたのは5年くらい前だったか。。。

ただ、さらに続編も存在します。そのうちに紹介します。

(ブログ主記す)

①誤字、脱字には一切手を加えていません。

②原文は句読点の代わりにピリオドが使われているため、意味を取り違えないように句読点に変更
  しています。

③会話であると分かる部分には『』を挿入しています。


傷ついた兵士、大陸を歩く(8

 出動の号令で南京城を後にした。何と無く長く留まる気持ちのしない街であつた。
港に着き待っていた輸送船に乗船。武装準備も完了。私は二人分の食量を袋に入れた。
 揚子江をエンジンの音は力強く波影を長く残して上流に進んだ。大陸を流れる広い川両岸は、山あり原野あり農家、畑があり景色は良く、しかし川の色がだんだん黄色く濁り、透明では無かった。
兵隊達はそれぞれの思いで気を穏やかに休める時でもあつた

 九江に着いた。工兵隊が、対岸までの渡り橋を流れの速い川に裸でロオプで繋ぎ懸命に作業しておる。
浄化水器、5台で音高く兵達は動き洪水の町人、兵達の水を補給しておつた。
 対岸には櫨山。200メートルもあるのか、その下には同庭湖。さて、琵琶湖とでも言いませうか兎に角広い湖です。工兵隊が作った板のゆらゆらした上を一列にかろうじて渡った。
 櫨山は蒋介石の別荘で此処で作戦を練って居た事であつたとゆぅ。その山の真下に部隊は陣取り、何十頭もの水牛が湖水に遊んでおる。一匹を撃ち殺し私の所に一塊り持つて来たがお断りした。夕食の準備で当番の何人か、兵隊達は飯ごう水いざで暗くなった闇の小川で川があって良かったと米を洗い五組の飯ごうをぶら下げて火を燃やす。無事夕食おわり。

ある班が農家の水牛を連れて来て、雑嚢など機材を右左に荷を乗せて自慢げに此れでで楽だと喜んだ途端水牛は暴れだし、荷を積んだまま一目散に闇の中に消えてしまった。さてその事はどうなったか分りません。

 翌朝洗物をする為小川に行った。昨日米や味噌汁を調達した川の10メートル上に三人の支那兵が頭を川に突っ込み、腸をはみ出た兵。もう一人も川に横たわっていた。私達は語る言葉も無く、顔を見つめ合い帰った。
 昨日は両軍共に戦い、敗走して支那兵はこの1メートルの川に倒れたのであろう。

夜間の行軍、もう可なり歩いておる。さすがに足の強い私も参って来た。目に見えて弱った者が出てきた。
強行軍である。武漢攻撃に部隊は、中央突破。武漢に通じる鉄道を遮断する任務らしい。
 先に戦つておる兵と交代。どうも苦戦しておるのでわないか。太陽の日差しも暑かった。
中隊長は馬に跨り私達の通過を見つめていた。たまには、交代して馬に跨り兵隊の通過を確認しておる。

50キロは歩いて居るのではないか、10分の休憩は有りがたい。息を吹き返す。
夕方まだ日の高い頃小高い山の麓に着いた。身に付けた装具を取り、小川の奇麗な流れの水で体を洗った。
石井准尉にも冷たい水で洗ってもらった。飯ごうの飯も仲間の兵が作り感謝、敵の攻撃が単発乍始まっていた。

 00時戦闘開始夜中の時であつた。隊は、先頭を切っていた。細い山道である。
藪漕ぎをしながら稜線にでるどう観ても、先はこの山より一寸高い暗くて良く分らない。
夜明けを待つてしづかに待機。戦闘は始まったのである。

 『行くぞ』山をいつきに駆け下りた。銃声は無し。まだ夜は明けていない。静かに、登りに適当な位置を探す伏せの体系で夜明けの時間を待つ。長い思いであるが、一息も二息もついて休息の時間でもある。水筒の水を一口入れて2,3回噛んで飲んだ。

夜は明けて来た。周りの木や草の生い茂りの状態が段々とはっきりして来た。
『行け』小隊長の低い力の篭った号令に、私は猪の如く駆け上った。
何箇所からの襲撃があつたが、各分隊も次々と稜線を占領した。他の分隊で捕虜を一人捕えたらしく、其の捕虜を連れて攻撃が始まった。

山を登るにしても、下るにしても、伏せをして銃を撃つにしても、動作は速く機敏に動き、重たい物等かつがせていた交代で捕虜は預かり我が分隊に来た
ある山の稜線で待機、乾パンを夜食にした捕虜も大分成れたきて喜んで食べた。

稜線から20メートルの所に警戒していた兵士が下から二名の支那兵を射殺したとの報告。
まだ日本軍が稜線までは来ていないとのんびりと登って来たらしい。翌朝一気に山を下り激しい戦闘であつたが、逃げ腰の敵は飛び散る様に消えていつた。

 山登りの行軍が続いた。考えてみると捕虜さんが見えない各分隊にもいなかった。『逃げたんだよ』 『厄介な人』  支那の若い士官だったらしい。

幾つかの山を越え谷を渡り、構えていた敵を殲滅しては進軍していつた。
八合目位の分儀点でチェコ銃をかまえ乍、下に逃げてゆく兵を狙ったが命中せず何回か失敗してしまつた。

『しゅうん どかん』

私達の中隊が山の斜面を登り進撃中、砲弾が下20メートルに爆発。顔を見合わせ安堵した。
石井准尉は、『早く国旗をふれ』と叫んだ。馬鹿け。日本のしかも我が同じ大隊の砲兵隊が我が中隊を狙ったのだから怒るに決まっておる。お陰で私は耳が未だに軟調で弱っている

可なりの戦闘であつた。下におりた。藁葺きの小さな家が何軒かあり、ちいさな30センチの小川がちょろちょろと流れ狭い畠があり規模の小さい農家らしい。人影は無く、寒村とゆうのであろう。
日の暮れぬうちに飯ごうを出す。取っときのするめいかをを出して火にあぶり、夕飯に添える。

人がおると聞き、行って見ると八十にもなる白髪のお爺さんで、今にも潰れそうなベットらしき上に横たわり動けんといつておる。
日本では、チュウキ、半身不随の老人であつた。私は、かんパンを一掴み、お爺さんの枕元に置き口に一個入れてやつた。置き去りになつた爺さんは脅えていたのが、だんだん落ち着いて来た様子であつた。 

夜明け前、国道らしき谷間の道を左の山道に入りしづかに進んだ。
急な1メートル位の山道でかなり高い山だなと思った。先頭は行進を止めた。

『夜明けまで まて』 隊は折敷をして銃を抱えて薄眠りにはいつた。夜が白けて来た。左側は深い谷間であつた。しづかに進み始めた。銃の音が激しくなつてきた。左の方向が強く、我が隊を狙い打ちにしておる。
 
『あそこだ』 兵は彼方此方から攻撃して来る方向に、三八銃を構えて打ち込んだ。1メートル、2メートルと進み、八合目位まで進むと山は大分開けてくる。
一列に進んで居たのがおお隊に散開して戦闘に入る。私の経験でこんな激しい戦闘は無かった。

 今ひと頑張りで山頂だ。飛行機の爆音だ、敵の打ち込んで来る攻撃が止んで隊は一斉に上に突撃した。
飛行機は飛び去り、ナダラカな広い高原であつた。天幕の中に指揮官らしき敵の将校が横たわり、兵達は退却の後であつた。

 何人かの負傷者が出たらしいが、我が分隊は皆健在。石井准尉も私の顔を見て笑顔を見せていた。

中隊は、つかの間の飯となり、私とインテリー兵、3年兵気のあった三人で並んで、腰を下ろし飯ごうの飯を食べていた。
 突然3年兵がホークを持つたまま前に倒れた。頭の後ろから目の上に貫通していた。何の音も無く、声も無く倒れてしまった。只只残念唖然として涙がこぼれた。狙撃兵か。中隊は全員高原に、集結。
敵兵が散乱して、もう一つ先の山へ向かって走り去るのを見ながら、その山に行進した。
一段と低く、多分50メータは低く気安く散開して進んだ。私が少年の頃諏訪の学校で度々登った霧が峰の山にそっくりで立ち木など少なく見渡す限りの高原で高山植物が咲き、秋空で仲間の友と駆け回った事を思い出しながら、3,8銃をかついで、進んだ。
低い方の山はこんもりとした稜線で、先は、急に降下して、遥か向こうにぐんと高い山岳が続いて見えた。

 一斉に敵の攻撃が始まった。弾は私達兵の回りにあられの如く落ちた。 打ち返した。 勿論他の分隊も相互に援護して戦った。 敵は此処を死守する思いで有ったのかも知れない。

私は、隊の左端をしんがりと考えて戦った。10メートルもの先に潜んでいた支那兵との個人的な戦いをやつていた。手投げ弾を発火させたが、不発。反対の方がくえ投げ捨てた。
 『危ないぞ』 と味方の声に『不発だ カンニン』 私は叫んだ。

 敵は撃ってきた。立ち上がり、銃を構えて撃つた。手ごたえはあつた。しかし私も左手を貫通遣られていた

彼等は下へ逃げていつた。遠く下に我が軍の部隊が集結しておるのを見て200メートルもあるのではないかと思ったが、大きな声を絞って、 『敵がそつちに行ったぞ』 と何回も叫んだ。

分隊は30メートル先で私の戻るのを待っていた。血の流れるのを見て、看護兵を呼んでくれた。
消毒をして三角巾で手を吊った。重症はタンカで下山、歩ける者は徒歩で下山した。石井准尉に会って報告したかつた。しかし看護兵に従い山を下山した。もくもくと歩いた。銃声、砲弾の響きがなる度に傷に響き痛かった。

 十月二日 中華民国江西省三坪高地で不覚にも、遣られた。 鉄道遮断これを為りとげたかつた。大屋田村の第27師団第一野戦病院に入った。田舎にしては大きい屋敷であつた。

穴の開いた手に長いリバゾールガーゼを突っ込み包帯を巻いた。三角巾で吊った。盧溝橋で遣られた時より傷は痛んだ。二三日して夕方日の暮れる頃、石井准尉と三浦でぶ准尉の二人が来てくれた。私の様態を軍医に聞き帰っていつた。 戦闘の事はどうなったか聞きたかったが、人事のこと指揮を司る准尉であるから作戦の間を挟んで来れる位だから上手くいつて居ると、私は判断していた。
軍用トラックに乗せられ、九江に待っていた輸送船で揚子江を下った。エンジンの音で傷は痛かった。

南京には寄らず、船は黄色い色した揚子江を上海に向けて走っていつた。何人か、唸っていた兵が日本の故郷をみながら死んでいつた。
上海の波止場に着き、タンカで何人もの兵が下ろされ私達も逐次に下りていつた。気の狂つた兵が居り、
『危ない恐いよと』叫び、衛生兵が押さえるのに手こずっていた。ボロのバスが来て乗り込んだ。上海のビルと賑やかな支那町を通り、上海野戦病院に入った。木造二階の大きな建物の中に毛布を敷き、ごろりと横になった。
安堵の気持ちで一杯であつた。お母さん有難うと私は心の中で叫んだ。母は、私が危機一髪のどんな苦難の時でも、道を開いてくれた。あの世から私を見守ってくれるのだと、信じていた。12歳の時母は死んだ。一家は、父は妹達と私を抱え、貰いに来た人を振り切り、手ばさなかつた父に未だに感謝する。

 翌日、広場に、軍指定の売り場が出ると ゆぅので、 手の痛さを堪えて、 出かけた。
食べ物に飢えた兵隊達でごった返していた。軍隊に着いて、 商売する商人達である。とらやの羊羹が押すな押すなの売れ行き。巾着の中には、一円六十銭 ある。一本20銭 を買って1円札を出した。
 兵隊に押されながら『間だあるからおしなさんな』 と言いながら、おつりを 四円八十銭をばんと私に渡し商売に励んでおる。 吃驚だ。 私は店から離れて暫く考えていた。 『有難う』といって とらやの羊羹にぱく付いた。
 60年も前の事であります。

 二三日して内地送還。名前を呼ばれ、明日いよいよ日本に帰る。やはり嬉しかった。病院の外は大きな倉庫が並び、中には綿が倉庫満タンに詰め込まれ、支那の闇買い人であろう。兵隊がその綿を車に積ませ闇買い人から札束を貰っているのを私は見た
『何だね』 睨んで尋ねると 『見逃してくれ』 

『馬鹿な奴らだ。俺達は戦つて傷ついて居るんだ。いい加減にしなさい』
『はいもう遣りません』と 倉庫から立ち去った

古いバスに乗り、上海の波止場に着き待っていた赤十字のマークをつけた病院船に乗った。
看護婦のてきぱきとした動作によって、私は簡単なベットの上に座った。海は荒れていた。
船は、荒れた海を日本に向かって走った。風は強く、左に傾き右に傾き、看護婦達は、壁に伝わり、よろけながら作業をしていた。

傷ついた兵の『痛い』と叫ぶ者、 吐き気を出す者、 看護婦自体倒れる始末。
船自体キシム音がする。日本に帰る喜びは何処えやらである。看護婦長同士の争いも見た。
大きな声でしかも班の部下達も10人位の看護婦は婦長をかばつて双方とも睨みあう。
其の後は静かになり何時しか眠りに入り、汽笛の音で目が覚める。

軍隊-手帳をみると11月十日内地送還の為上海出発、11月14日宇品上陸。同日広島陸軍病院に収容。
後には、原爆で跡形も無くなる、この病院にどの位いたのか。

軍医、看護婦、従軍看護婦大日本婦人会に感謝し切れないほど世話に成りました。
気の狂つた兵は、病室に居てもカーテンの揺れるのを見て脅え敵が居ると指を指して騒ぐ。
夜中にもそんな事で眠れないし、怒ることも出来なかった。

何処を向いても和やかな人たち。港でもやはり日本の港は美しい。小さい日の丸の旗を振って迎えてくれた日本人何回も涙した事がある。
この病院の事を思い出して、広島の旅行に数回行つて居るが、其の場所に行く機会がなかつた。
私は、よく川ベリにたたずんで、鑑賞的に静かな夕暮れなどを楽しんでいた、思いが今だに残っておる。

 軍隊手帖には 『11月14日 歩兵第三連隊留守隊二転属』とある。
日本に上陸と同時に私は 2、26事件の主役であつた連隊の兵隊となったのである。 

広島の駅から町の在郷軍人会、婦人会市民の見送りに送られて東京に向かった。停車の駅は、負傷兵を迎えて、称える励ましの言葉で、私達は感謝して頭を下げた。
東京駅に着いた。何と人の波でホームは一杯。レンカ゜作りの駅を宮城側に出る人の波を分ける様にして、バスに乗る。発車、白バイが先頭に左右に後ろにサイレンを鳴らしながら、お堀端を走り、東京第一陸軍病院に入る。
重症兵は下ろされ、我々は、またバスで、白バイの先導で世田谷の東京第二陸軍病院に入る。
軍医、看護兵多くの人の出向かいを受けて、入院したベツトがあり、廊下は三メートル。部屋は30人位入り何班にも分かれていた。朝晩は、点呼があり軍隊と同じ。
手は化膿し始めていたが、本格的治療によりメガネの様に穴が空いて先が見えたのが、段々小さくなって来た。
病院生活の記録は長く続くので、この傷付いた兵士大陸を行くは日本に帰った迄で打ち切り次回は 病院生活から社会復帰をテーマとして書いて行きます2003-8-11月


戦争の悲惨さ、当時の戦い方、そして日本兵の中にも汚職などに手を染めるものもいた。
虎屋のようかんのエピソードなど、ちょっとほほえましい所もある。
そして、おそらくアメリカとの本格的な戦争に入る前の時期かな。
人々の姿がとても温かく感じる。戦前、そして戦中(前半)の日本って、物質的には豊かでなくても、心は豊かな時代だったのではないかと改めて感じます。

次回に続く
 
(*故人の残された手記の紹介です)
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