天下分け目の関が原

明くるど閉ざす雲暗く
 ススキかる萱そよがせて
   嵐はさっと吹き渡り
     万馬嘶く声高し
 筒雷ととどろけば
  (不詳)稲妻と翻る
    天下分け目の戦いは
      今や開けぬ関が原

関が原の合戦で徳川家康の陣の前を中央突破して帰国を果たした島津義弘公をしのんで、妙蓮寺参り(多分)というお祭りがあります。その時に歌われる歌だとかいうことで、何んか習わされて、覚えております。
関が原の合戦にやむなく西軍として参加した島津義弘公は、関が原の合戦には参加せず、勝負の帰趨が決した後に、敵前の突破を敢行し、鹿児島に帰ることが出来た。
しかし、薩摩まで付き従った家臣はたしか80人あまり。そのほとんどは、退却の途中で、『すてがまり』とかいう名前の、玉砕戦法で命を落としてしまったはず。
その薩摩の行動を、『英雄的』とたたえるのが鹿児島人としては当然のことかも知れないんですが・・・
私はちょっと割り切れないものを感じておりました。
そもそも、私は、西軍の人々の方にシンパシーを感じております。
クリスチャンであり、らい病患者の療養施設を作るなどの福祉活動をいち早く行い、また、秀吉の『海軍』を指揮した武将、小西行長
小西行長に特に思い入れが深いのは・・・
かつての彼女の名前と同じだからというだけではありません(笑)
朝鮮出兵の際の、明の記録にもその名前は出てくる。『日本軍には二人大将がいるが、信用できるのは小西行長だけだ。加藤清正は、鉄砲使いが上手いだけの武将である。交渉する相手ではない』と。
たしか、その記録には、こんな明軍の『苦情』も書かれている。
『日本から攻められているから助けてほしいと言われ、出兵してきてみたら、我々が戦う相手は皆、朝鮮人ではないか。一体どういうことだ!』
そう、朝鮮の王に対して苦情を言っている事が残されているらしい。伝聞ではありますが。
自らもらい病を患い、目が見えず、その顔を人前にさらさぬ為常に頭巾をかぶり、関が原の合戦には、東軍で参加するつもりが、親友石田三成の呼びかけに答え、一命を賭す覚悟で戦いに望み、奮戦した大谷吉継
その行いから多くの敵を生み、豊臣恩顧の武将を徳川方に寝返らしてしまったとは言え、恩義のある豊臣の為に、西軍を組織した石田三成
それらの武将と比べて、思わぬ形で参戦する事になった、薩摩の島津はどうなのか・・・

本日、関が原の地に立ってみました。


最初に行きたかったのは、小西行長の陣の跡でしたが、結果的に最初になったのは、大谷吉継墓所とされているところでした。


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今は、木々の生い茂る山の中。当時はどうだったんでしょうか。やはり、里山として整備された、雑木林と見るのが良いのでしょうか。

大谷吉継の陣は、この墓所から数百メートル下ったところです。


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平野に布陣する東軍に対し、高いところに布陣し、しかもその場所は『天然の要害』とでも呼べるような所です。

次は、戦の帰趨が決まった場所、決戦の地


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この背後の小高い山に、石田三成の陣があったようです。


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石田三成の陣は、関が原全体を一望できる場所。しかも高台にあり、守りやすく攻めやすい。味方の寝返りが無ければ、どう考えても西軍の勝ちが決まっているような陣形です。

さて、関が原の合戦の開戦の地はここ。


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そこから、わずか30メートル後ろにあるのが小西行長の陣です。


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ここは、大谷隊とも石田隊とも、薩摩隊とも違い、緩やかな坂の上にある陣。おそらく、戦いの『先鋒隊』として、小西隊がいたのではないか。
商人上がりと揶揄され、合戦の後、処刑されてから、『その存在が消し去られたような』小西行長の別な姿が見えるような気がします。



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その陣跡には、赤い花が咲いておりました。

さて、島津軍。


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ここが陣跡。最初に攻め込まれた時に、防戦するのみで攻撃をする事は無かったとか。そして、石田三成の攻撃の要請にも答えなかった・・・

その島津の陣と、開戦の地、小西の陣は・・・



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右の森が、島津軍、左の森が小西軍の陣地。


すぐ隣で激戦が行われているのに、何もしなかった島津軍ってのは、本当に勇者であったのか。

その場に行ってみて初めて分かるもんなんでしょうかね。



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